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第27章 実証主義と反証主義

学問的あるいは科学的に正しい事柄・命題は、科学的方法によって検証され証明されています。しかし、時代が変われば、学問的・科学的に正しいとされたことが否定されて、新しい「事実」が唱えられるようになります。これをどう考えるべきなのでしょうか。学問的・科学的な「正しさ」は、実は正しくないのでしょうか。こうした「正しさ」について、どのように考えるべきかを学びます。

学問と科学は、「正しい」と実際に証明されている、すなわち、実証されていることが先ず必要です。同時に、実証されている裏では「正しくない」という可能性、すなわち反証可能性も必要になります。この「正しい」ことと、「正しくない可能性」という矛盾する考え方が、学問と科学にどのように関わっているかを理解してください。

目次
1 正しさに関わる問題
2 実証主義(論理実証主義)
3 反証主義(反証可能性)
4 実証と反証の関係

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1 正しさに関わる問題

学問と科学の正しさは、適切な科学的方法の手順に則って研究することで証明されていきます。
しかし、学問の世界では、適切な科学的方法に則って証明しているにもかかわらず、今まで「正しい」と思われていたことが、覆されることがあります。
これについて考えると、何だかおかしな気分になるかもしれません。

まず、大前提として、適切な科学的方法で証明されたことは、現実と合致しており「正しい」のではないのかと思うからです。
さらには、こうした前提があるから、科学的方法を一生懸命に身に付けたのに、手続きに則っても間違っている可能性があるのなら、意味が無いじゃんとも思う人もいるかもしれません。

これまでの講義では、「証明された」とか「正しい」とか「真である」とかを無批判に使ってきました。それと同時に、要所々々、学問的・科学的「正しさ」は、絶対不変の真理を意味するのではないこと、正しい確率が高いとか蓋然性が高いことを意味すること等も説明してきました。

したがって、「学問的・科学的な」文脈において、「証明された」とか「正しい」とか「真である」とかいった文言が、無条件で正しい、真実であることを意味しないことを理解しておく必要があります。絶対不変の真理ではないということです。
実際、第24章 学問と科学の定義と目的でも、真理の定義を、「今現在における、より正しいとされる物事・事柄・道筋」としました。この真理の定義は、「正しい」ことが変わることを前提としています。

そこで、学問的・科学的に「正しい」ことが持つ意味について、実際に証明されることで担保されていることと、後で新事実が発見されて覆されることの2つの側面から考えてみることにします。

前者の証明されていることに関しては、実証主義という考え方が中心になります。
後者の覆されるかもしれないことに関しては、反証主義という考え方が中心になります。

まずは、実証主義から考えます。
科学的方法では、観察された事実から仮説を形成し、そして、事実と合致していることを検証することで、「正しい」ことを確かめてきました。ですから、実証主義が学問と科学の主要な軸になるのは疑いようもなく、また納得もできるかと思います。これについて、最初に概観します。

次に、反証主義について考えます。
科学的方法によって「正しい」ことを証明つまり実証したことは、後で覆されることがあります。ということは、実証された「正しい」ことについて、後で覆されることを考慮しておかないといけません。この覆され得ることについての捉え方を学びます。

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2 実証主義(論理実証主義)

さて、一般的に言って、私達は、「科学的に証明された」とか「科学的に正しい」とか「科学的な知識」とか「科学的な事実」とかいった文句を聞くと、それが必ず「正しい」ことであると信じてしまう傾向があるかと思います。
確かに、科学的に「証明された」ことは「正しい」ことあり、その「科学的な知識」は「事実」と考えても問題がないことが多いです。また、そうしたことを前提に現代社会は回っています。

そして、「科学的に正しい」ことにおいて、その「正しさ」を担保しているのは、科学的方法でした。
つまり、対象を観察し、そこから抱いた問題意識に対して、合理的な説明としての仮説を形成し、それが実際に事実と合致しているかを検証するという手順あるいは手続きに則っているから、「科学的に正しい」ものとして証明でき、皆がそうだと納得できるのです。

したがって、観察したことから形成された仮説は、検証されることで初めて本当に正しいのかどうか分かることになります。
逆に、検証されなければ、正しいかどうかは分かりません。

つまり、科学的方法の中で、「科学的な正しさ」を成立させる一番の肝は、仮説検証だと分かります。
ですから、実証とは、経験することができる事実に基づいた証明と言えます。
「経験することができる」とは、「観察することができる」ことを意味します。

これを踏まえた立場を実証主義と言います。
つまり、確固とした客観的な経験できる事実に基づいて論理的に推論されて証明されたもの、すなわち、実証された知識が科学的な知である、とする立場です。

実証主義は、英語では positivism と言います。
positive という英語は有名ですね。日本語でも、「前向きに考えよう」とか「積極的に行こう」とかいった意味で、「ポジティブに考えよう」とか「ポジティブに行こう」とか言ったりします。このように、positive は「前向きな」とか「積極的な」とかいう意味が有名ですが、その由来はフランス語に求められます。positive や「実証」という言葉を深く理解し、その響きに振り回されないために、positive の由来について少し詳しく説明します。
positive は、フランス語の positif という単語を輸入したものです。そのフランス語の positifポジティフ は、ラテン語の positiviusポシーティーウス から来ています。positivius は、posit と -ivius によって構成されています。

posit は、ponoポーノ が変形したもので、「置く」という意味です。post なども同じ語源になります。
「置く」ことがされたもの、つまり、置かれものは動きませんし、そこに確かにあることになります。
ですから、「確かに存在すること」を意味します。
日本語の名詞を使うとしたら「確定」や「断定」といった意味になります。

-iviusイーウス は、「…の傾向がある」という意味です。これは、今の英語の「性質や傾向」を表す形容詞をつくる -tive と同じです。

したがって、語源的には、posit が「確定、断定」という意味で、-ive が「…の傾向がある」といった性質を表すので、positive は「確定的な、断定的な」という意味が核となります。
原義意味・機能英語
positpono の変化形置く確かに存在すること
=確定・断定
post
-ivius…の傾向がある性質
傾向
形容詞化-tive

では、positive の原義が分かったところで、「誰が」「何処に」「何を」「置く」のでしょうか。「置く」という言葉から、「誰が」「何処に」「何を」の3つが何なんなのだろうかと考えます。

実証主義を唱えた人は、「経験が」「人間の思考あるいは精神に」「科学的知識を」「置く」と考えました。

誰が何処に何をpost
経験が人間の思考あるいは精神に科学的知識を置く 

つまり、実証された事実や知識、つまり、postive な事実や知識とは、「経験に基づいて得た知識」なのだということになります。
したがって、「正しい科学的な知」とは、「経験に基づいた」ものなのだから、検証を経ていないといけないのもの納得が行きます。

こうした実証主義の考え方は、19世紀前半に活躍したフランスの哲学者兼社会学者のオーギュスト・コントが提唱したものでした。
時代背景としては、1789年にフランス革命が起こり、それ以降大混乱を経ながら、キリスト教あるいはカトリック教会から解放されて、科学的な正しい知を求めていたということが挙げれられます。聖書に書かれているからではなく、あるいは、神がそうしたからではなく、人間が実際に経験したものに基づいたものだから、「正しい」として、科学を確立しようとしていました。人間の理性による世界の理解が目指されていたことから、実証主義は生じます。

こうした19世紀の潮流を通じて、科学は大発展していきます。
ヨーロッパ各国で産業革命が起きますし、アメリカも経済成長をどんどんとします。科学は、それを後押しするように、色々な現象を解明し、様々な技術の発明に貢献してきました。
まさに、科学は、「正しい」事実を明らかにしたものであり、生活を豊かにしてくれるもの、未来を予測できるもの、とても便利で有益なものだという感覚になっていきます。

19世紀前半
理性によって、宗教からの脱却
人間の経験に基づいて、「科学」を確立
→実証主義 byコント

そうした中で、19世紀後半頃になると、「科学」と呼ばれるものの対象が拡散・発散して行き、何が「科学」なのかが分からなくなってきます。
「科学」が便利で有益なので、皆が「科学」で色々と考えるようになったのはいいのですが、それに伴って「科学」と呼ばれるものが何か曖昧になります。そして、「科学」という言葉が持つ「正しさ」や便利さ有益さの印象が独り歩きするようになりました。
「科学」が何なのかよく分からないけど、「科学的」と言われると、何だか「正しい」気がして来るものです。現代社会でも、大した効果もないのに、科学的な根拠があるように見せて、色々な商品を売り捌いているのを見ると、昔も今も変わらないと感じますね。

19世紀前半
理性によって、宗教からの脱却
人間の経験に基づいて、「科学」を確立
→実証主義 byコント

19世紀後半
「科学」の範囲・対象の拡散・曖昧化
→「科学」の「正しい」「便利」の印象が独り歩き

例えば、19世紀後半には、マルクスによる社会主義・共産主義思想も「科学的」だと言われながら、流行してきました。
弁証法的に歴史が展開していき、封建主義社会は資本主義社会によって否定されたとして、このまま発展して行けば、社会主義・共産主義社会へと移行するという考え方です(第 I 部 論理的思考 第9章 弁証法 1 定義)。
これが本当に「科学的」ならば、理論は正しいことになり、予言通りに共産主義社会に移行するのが必然になります。

厄介なのは、これが宗教結社のような信仰の下に唱えられたものではなく、正しいことを明らかする便利で有益な「科学」の下に唱えられたことです。
宗教の様なものなら、本当に信じている一部の人以外には、訴求力がありません。しかし、当時の多くの人には、「科学」が素晴らしく正しいものだという意識がありました。「科学」と言われれば、「そうか、マルクスの言っていることは正しいのか」と思ってしまうものです。それなら、「マルクスの言う通りに革命を実行しようではないか」と考える人が出て来ても不思議ではありません。
その他にも、精神分析で有名なオーストリアの精神科医フロイトの提唱した「無意識」という考え方も「科学的」だとして流布してきました。
これらの理論は、誰も「正しい」かどうかは検証していません。が、「科学的」であり、「正しい」と信じられる・・・・・ようになってきました。

こうした傾向を見て、不味いと思い危機感を抱いた集団が、ウィーン学団です。
音楽の団体の楽団ではななく、学者の集団である学団です。オーストリアの首都にあるウィーン大学を中心とする学者の派閥というか集団です。20世紀の初めに、物理学や数学・論理学を身に付けた哲学者が中心となって形成されました。主席は、物理学者であり哲学者であるモーリツ・シュリックです。特に物理学者カルナップが記した『世界の論理的構成』が有名です。
ちなみに、ウィーン学団はユダヤ系が多かったこともあり、ナチス=ドイツが猛威を振り始めると、多くはイギリスやアメリカへ亡命するようになり、すぐに消滅してしまいました。

19世紀前半
理性によって、宗教からの脱却
人間の経験に基づいて、「科学」を確立
→実証主義 byコント

19世紀後半
「科学」の範囲・対象の拡散・曖昧化
→「科学」の「正しい」「便利」の印象が独り歩き

20世紀初め
ウィーン学団の危機感
「科学」でないものが「科学」と考えられている
→論理実証主義へ

ウィーン学団は、「科学」が信じるか信じないかの世界である宗教と変わらなくなってくることを何とか防ぎたいと考えました。

そこで、ウィーン学団は、オーギュスト・コントが主張した実証されたものが科学なのだという考え方をより論理的に厳密化しました。
つまり、経験に基づいて論理的に推論されて証明されたものが「科学的に正しい」ことだと考えます。こうした実証主義を特に、論理実証主義 と呼びます。英語では、logical positivism です。
細かく見れば論理実証主義とコントの実証主義は違うのですが、専門家ではない皆さんは、そういった細かな違いは特に気にしなくていいです。興味があれば、大学生になったら教養科目でも取って学んでください。

ともかく、論理実証主義という、確固とした客観的な経験できる事実に基づいて論理的に推論されて証明されたものが、「科学的に正しい」ものであるという考え方は、このような時代の流れの中で生まれてきました。

そして、この「科学的に正しい」ことを支えるのが、検証です。
合理的な説明である仮説はもっともらしいけど、現実と合致するかは分かりません。現実と合致することを確認できて、初めて「科学的に正しい」ことだとハッキリと言えます。検証して現実と合致しなければ、「科学的に誤り」であることになります。
逆に、検証を経ていない仮説は、もっともらしい説明に思えても、現実と合致しているかは実際に観察してみないと分からないので、「科学的に正しい」とも「科学的に誤り」とも言えません。

このように、「科学的に正しい」ことを支えるのが検証であるから、「科学」であるか否かを決める基準も検証が重要になります。
つまり、観察や実験等のように、検証が可能かどうかが、「科学」であるか否かを決める基準になります。
検証できる対象が「科学」であり、検証ができない対象は「科学」ではないと考えます。
そして、「科学的に正しい」知識や事実とは、確固とした客観的な経験できる事実に基づいて論理的に推論されて証明されたものになります。

「科学」は検証できるか否かで決まる
検証できる対象⇒科学
検証できない対象⇒科学ではない

したがって、論理実証主義に従えば、この「科学」の範囲から外れた、「科学的ではない」知識は、信じるか信じないかという宗教と変わらない世界であり、それが現実を説明している保証はないと考えることになります。

これを踏まえると、検証もしておらず結果の観察もしていない、マルクスの思想やフロイトの精神分析は、「科学」ではないことになります。
それにもかかわらず、「科学的」のように見せて、まるでそれが真実であり、現実と合致しており、「正しい」ことのように振る舞っていることになります。真理とは何か等を考えている哲学なども同様になります。
誰もそれが現実と合致しているのを確かめた人はいません。また、検証のしようがありません。
したがって、こんなものは、論理実証主義の立場に立てば、「科学」とは言えません。
現実と合致しているか誰も確かめてなくてもよくて、それっぽい説明をするだけなら、宗教にだってできるのです。

こうして、実験や観察を通じて検証されていない仮説にすぎないものが、まるで、実証された物理学のニュートン力学と同じような「科学的な正しさ」を持つと考えられることを否定できました。

すなわち、何時でも、何処でも、誰がやっても、同じ条件をそろえれば、同じ結果が得られる再現可能性のある「科学」の知と、そうではない単なる仮の説明としての知を区別できて、論理実証主義者は一応の満足ができました。

以上のように、「科学」であり「科学的な正しさ」は、確固とした経験できる事実に基づいて論理的に推論され、検証を通じて証明されたものであるという実証主義の考え方によって成立しています。

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3 反証主義(反証可能性)

こうして実証主義あるいは論理実証主義の立場の下に、「科学」を考えて行くことで、「科学的に正しい」ことと、そうではないことを明確に区別できます。

しかし、問題と言うか、1つ疑問がわきます。実証された「科学的な正しさ」も覆されることがよくあり、それなのに実証されたと言っていいのか、という疑問です。
検証されて「正しい」と証明したことを「実証」したと言います。実証されたはずの理論や事実が、新事実の発見等によって簡単に修正されたり、誤りであるものになったりすると、「正しい」と証明できていないではないか、と思うのも無理はありません。
これを少し丁寧に話しましょう。

そもそも、「実証」の定義から、実証された事柄は、検証されて「正しい」ことが証明されたことを意味するはずです。「正しい」ことというから、「間違っている」ことが発生することは有り得ません。言葉の定義からも矛盾するからです。
したがって、実証された事柄が実は「間違っている」という事態が発生することは、論理的におかしいです。

実証された事柄検証されて「正しい」ことが証明されている
実証された事柄 「間違っている」という事態が発生しない

実証された事柄が、実は「間違っている」ことは論理的に有り得ない

このように、もし、実証された事柄が後で覆されることを認めたら、本当は「間違っている」説明なのに、「正しい」と実証されていたことになります。
これでは、事実と合致していない「間違っている」説明を「正しい」と認めてしまい、「実証した」と言っていることになります。

さらに、よくよく考えると、実証するために検証する際に、観察している対象は、一般的で抽象的な仮説やモデルそのものではありません。そのものを観察していないのに、実証できたとするのは、論理が飛躍している気がします。

まず、実際に観察しているのは、個別的で具体的なデータ(事例)です。
この個別的で具体的なデータ(事例)は、一般的で抽象的な仮説やモデルそのものではないが、それを代表していると考えて、実証できたとしています。

一般的・抽象的な仮説・モデルの実証
→観察対象:個別的・具体的なデータ(事例)

もちろん、仮に、世界中に存在する個別的で具体的なデータをすべて集めて観察することができれば、実証できたと胸を張って言えそうです。
しかし、現実問題として、世界中のすべての場合を調べることができるのかと言われれば、ほとんどの場合、無理だと分かります。
そうすると、全体の一部を調べただけで、実証したと言っていることになります。

一般的・抽象的な仮説・モデルの実証
→観察対象:個別的・具体的なデータ(事例)
→全体の一部だけを調べただけ

論理実証主義からしたら、一部しか調べていないことなのに、全体を検証したかのように語ることは、論理が飛躍しており、許し難いことのはずです。
したがって、論理実証主義では、どこまで行っても個別的で具体的な事例についての説明であり、一般的で抽象的な理論については何も語れなくなります。

しかも、1930年からは、オーストリア出身の数学者ゲーデルが「不完全性定理」を発表し始めました。
数学は、公理を前提として推論しており、非常に論理的であり、数学によって証明されたことは「正しい」ものだと思われています。
しかし、ゲーデルは、出発点かつ最初の前提である公理が、無矛盾つまりは正しいことを証明することはできないことを明らかにしました。

これは、(論理)実証主義者からしたら堪ったものではありません。
物理などの自然科学では新事実の発見により「正しい」ことが覆されることが、よく起こることだけでも困ったものなのです。それなのに、さらに、完全に論理的であるはずの数学の世界でも、最初の前提である公理自体が証明不可能であることが明らかになっては、途方に暮れてしまいます。
数学の論理的な「正しさ」を利用しても、論理を構築するときに、確固とした経験や証明を通じた「正しい事柄」から出発することが、厳密にはできないことになってしまうからです。

これでは、(論理)実証主義者の目指していた「科学」が破綻してしまいます。つまり、検証できるものだけが「科学」であるという厳密な意味での「科学」の破綻です。
論理実証主義では、検証できるものだけが「科学」なので、それ以外の検証できないものを「科学」から排除し否定します。そうすると、数学も利用できず、観察も確かではないとなると、「科学」の対象がすべて無くなります。

論理実証主義の「科学」の破綻
・検証できるものだけが「科学」
・数学も観察も不確か
→「科学」の対象がすべて無くなる

(論理)実証主義の立場における「科学」の範囲は、こうした問題を抱えていることが明らかになります。
したがって、(論理)実証主義では、何が「科学」であり、何が「科学」ではないのかの区別ができないことが分かります。(論理)実証主義が考える「科学」は、現実問題として、その定義に当てはまる対象が皆無になるため、「科学」かどうかを区別しても意味がなくなります。

そうだとしたら、「実証」が意味することは何なのか、定義を再考すべきではないか。あるいは、「実証」という言葉自体が大した意味がないのではないか。こういった疑問と問題を解消しないといけません。
それならば、(論理)実証主義に代わって、「科学」であるものと「科学」ではないものを区別するためには、どうしたらいいでしょうか。

確認しておきましょう。(論理)実証主義の問題点は主に2つです。
まず、最初の問題点は、「科学的に正しい」と実証されたことも後で覆されることがある。
そして、その原因でもあり、もう1つの問題点が、現実問題として、すべての個別的で具体的な場合を調べて検証することができない。
この2つを解消しないといけません。
さもなければ、「科学的に正しい」ことは存在しなくなり、したがって、「科学」の対象も存在しないことになります。

こうした(論理)実証主義の問題点を指摘して、新しい「科学」の範囲を規定するもの、「科学」を定義する基準として反証主義を提唱したのが、オーストリア出身のイギリス哲学者カール・ポパーです。
ポパーは、ウィーン大学で学びましたが、ウィーン学団の論理実証主義を批判しました。なお、ポパーもユダヤ系だったので、ナチス=ドイツの迫害を逃れるためにイギリスに亡命しました。

反証主義では、「科学」は「間違っている」ことを証明できる形で表すかどうかで決まると考えます。
英語では、falsificationism と言います。falsify が、理論などに対して「誤りを証明する」という意味です。それを名詞化して falsification となり、「反証」という意味なります。これに -ism という「主義」を表す接尾辞が付いて、falsificationism となります。

反証主義の立場では、「科学」は間違っていることを証明できる形で表すかどうかで決まるので、「科学」であるからには、間違っていることが証明される可能性が必要になります。これを、反証可能性 falsifiability と言います。
つまり、「科学」においては、検証され実証され定説と考えられるようになった仮説であっても、常に反証可能性がつきまとうことになります。

そして、反証主義における「科学的に正しい」という言葉の持つ意味は、今現在、反証されていない状態だと言えます。
つまり、「間違っている」ことが証明されていないから、今現在は「科学的に正しい」と考えていることになります。

この反証主義の立場のように、「『科学』であるからには、反証可能性がなければならない」と考えると、(論理)実証主義の立場で考えた、「『科学』であるからには検証可能性が必要だ」として生じた問題が少し解消されます。
なぜならば、「間違っている」ということを証明できる形で提示されていれば「科学」だとすれば、検証できるものが「科学」だと定義する(論理)実証主義とは違う形で「科学」の対象を考えることができます。
そうすると、「科学」の対象・範囲が皆無になるという事態を回避できます。

なお、「間違っている」ことを証明できる形で表すかどうかで「科学」か否かが決まるというのは、初めて聞くと奇妙に感じるかもしれません。
「科学」では、「正しい」ことを証明すること、つまり、実証することを目指しています。それなのに、敢えて「間違っている」ことを証明できる形で提示する必要がある、と考えています。
つまり、目的が「正しい」ことの証明であるのに対して、手段が「間違っている」ことを証明できる形にするという矛盾を感じるため、奇妙に聞こえるのです。

反証主義に対する違和感…矛盾
目的:「正しい」ことの証明=実証
手段:「間違っている」ことを証明できる形で提示=反証

でも、よく考えると、実にそうだと納得できます。
そもそも、(論理)実証主義と反証主義では「科学」の捉え方が異なっています。直感的には「検証できるものが『科学』だ」という(論理)実証主義の考え方の方が分かり易いですが、それでは、「科学」の対象が無くなるという問題が起きました。そこで、その問題点を解消するために、「反証可能性のあるものが『科学』だ」という反証主義が唱えられました。したがって、反証主義が少し回りくどく感じたり、矛盾があるように感じるのも無理がありません。
このことに注意しながら、反証主義の違和感について検討します。そして、それが、そのまま(論理)実証主義の2つの問題点の解消に繋がります。

「科学」であるからには、反証可能性が必要だとすると、一度「正しい」と証明された仮説が、後になって新事実等が発見されることで覆されても、問題ないことになります。
反証主義では、「科学」であるか否かが、「間違っている」ことを証明できる形で提示されているか否かで決まるのだから、その「間違っている」可能性を支持する証拠が見つかっただけでしかありません。
「間違っている」ことを証明できる形で提示できいる限り、「間違っている」ことが証明されても、別に「科学」の定義から外れることはありません。後で「間違っている」ことが判明しても、それはそれで「科学」なのだと言えます。

また、「科学」であるからには、反証可能性が必要だとすると、一般的で抽象的な仮説やモデルを実証するのに、すべての個別的で具体的なデータ(事例)を調べ尽くす必要がなくなります。
(論理)実証主義の立場ならば、厳密に言えば、すべての場合のデータ(事例)を調べなければ、「実証できた」と言えませんでした。しかし、現実問題として、すべての場合のデータ(事例)を調べたり実験し尽くすことは不可能なので、どんな仮説も「科学的に正しい」ものは存在し得ないことになりました。
これに対して、反証主義の立場に立てば、そもそも仮説には、「間違っている」可能性が常に付き纏うことになります。したがって、すべての場合のデータ(事例)を調べ尽くす必要はなくなります。全体の中の一部である個別的で具体的なデータ(事例)によって証明されていても問題がありません。
もちろん、本当にわずかな数のデータ(事例)だけでは、仮説の「正しさ」は弱くなります。これは次の4 実証と反証の関係で詳しく説明します。

以上のように、(論理)実証主義の立場をとり、検証可能性があるか否かで「科学」であるか否かを判断すると、「科学」の対象がなくなってしまいましたが、反証主義の立場をとれば、「科学」の対象が存在しなくなるという事態を回避できました。
したがって、「科学」であるからには、仮説は反証可能性がある形で示す必要があることが分かります。

具体的に、「カラスは黒い」という仮説を使って考えてみましょう。
「カラスは黒い」という仮説は、一般的で抽象的な「カラス」について「黒い」ということを述べています。
一般的で抽象的な概念としての「カラス」を観察することはできないので、この仮説を実証すために、実際に個別的で具体的な個体である「カラス」の色を調べて検証することになります。

しかし、現実に世界中のすべての個別的で具体的な「カラス」を調べることは不可能に近いです。
ですから、全体の中の一部の「カラス」を調べることになります。それで調べた「カラス」は確かに「黒い」ことを確認でき、実証できたとします。

(論理)実証主義の立場に厳密に則ると、これでは検証が不十分です。
全体の中の一部しか調べていないので、その検証・観察結果から言えることは、調べた一部の個別的で具体的な範囲において、「カラスは黒い」ということだけです。
決して、一般的で抽象的な意味での「カラスは黒い」は「科学的に正しい」とは言えません。

反証主義の立場ならば、この検証でも十分と言えます。
全体の中の一部であっても調べた範囲では「カラスは黒い」ことが正しく、「黒くないカラス」は観察されなかったからです。
それでも「科学的に正しい」と言えるのは、一般的で抽象的な「カラスは黒い」という仮説に反証可能性があるからです。
ちょっと分かり難いと思うので、丁寧に説明します。

反証主義では、仮説に反証可能性がある限り、「科学的」仮説だと言えます。
つまり、「黒くないカラス」、例えば、「白いカラス」などの仮説が「間違っている」ことを証明するような発見がなされれば、「カラスは黒い」という仮説が否定される形で提示されているから、「科学的」な仮説となっています。

そして、反証主義の立場でも、「科学」と言うからには、検証が必要です。
そのために、全体の中の一部ですが個別的で具体的な「カラス」を調べています。その結果、「黒くないカラス」が見つからず、「黒いカラス」のみが見つかりました。
これで、一般的で抽象的な「カラスは黒い」という仮説を否定する証拠が見つからなかったので、「科学的に正しい」と言えます。
調べたデータ(事例)が一部とは言え、調べた中では仮説が「正しい」と言えます。反証主義では、すべての場合を調べなければ「科学的に正しい」と言えない、ということはないのです。
その検証を経た仮説は、依然として、反証可能性があるので、「科学的」です。

このように、反証主義の立場では、すべての個別的で具体的なデータ(事例)を調べて検証していなくても、一般的で抽象的な仮説は「科学的」だと言えるのが分かります。
そして、(論理)実証主義と異なり、厳密にすべての場合を調べ尽くすことは、「科学的」であるための絶対に必要な条件ではありません。

さらに、このことから、「科学的に正しい」とは、今現在、反証されていない状態だということも納得が行きます。
つまり、「間違っている」ことが証明されていないから、今現在は「科学的に正しい」と考えていることになります。

こう考えれば、将来、仮説やモデルが否定されたり修正されたりすることも納得がいきます。
現在は、反証されていないが、科学が発展して、反証されただけだからです。「間違っている」可能性がある「科学」の定義上、何の問題もありません。それゆえに、今現在は、反証されていないので「正しい」と、考えることも問題がありません。

したがって、逆に言えば、反証主義の立場からは、反証可能性がないものは「科学」とは言えません。

例えば、先に述べたマルクスの歴史認識などは、かつて「科学的」であったと言えたかもしれません。
なぜならば、マルクスの歴史認識は仮説として、一応は反証可能性があったからです。
そこで、20世紀に、実際にマルクスの理論に則って、複数の国家と地域で、社会主義革命、共産主義革命が起こされました。幸運なことに(?)、仮説検証ができたのです。

しかし、マルクスの理論が予言したのとは異なり、社会主義あるいは共産主義体制は、平等な公平な社会にはなりませんでした。資本主義と比べても驚くほどの不平等があり、一部の特権階級的な指導者層のみが豊かになって、それ以外の大半の人民は貧困のまま取り残され、貧富の格差は広がりました。また、一党独裁体制になってからは、粛清や人権弾圧の嵐が吹き荒れました。

まさに、マルクスの理論は仮説検証されて、誤りだったということが証明されたのでした。
つまり、反証されました。この時点で、「科学的に」言って、マルクスの理論は誤りだったことが分かります。

しかし、ここからが問題になります。
共産主義者は、マルクスの理論の誤りを認めずに、「いや、あれはやり方が不味かったのだ」とか「高度に発達した資本主義にまだ至っていない」とか失敗した理由付けをしました。
反証されたのに、後だしジャンケンのように、新たな前提や理由を持って来て付け加えて、マルクスは間違っていないと主張するのです。これでは、あのマルクスの理論仮説は一体何だったのか、ということになります。

また、理論通りに実行できていないという理由付けは、この場合、そもそも認められません。だったら、実験を繰り返して反証されない実行可能な理論を用意しておくのが筋です。
確かに、理論と実践は異なります。自然科学の分野でも、理論上はできるが、実際にやることはできない、といったことは多くあります。これは別に、こうした理論が無益で無価値だと言うことを主張しているのではありません。今現在は、理論上の話で、実行するのに科学技術等が追い付いていないので、将来的には実現できる理論だってあり得ます。その将来を見越して、理論を精密にすることは、非常に価値のあることです。
しかし、今現在では、実行不可能なのだから、そうした理論は、実践上の価値がないことになるのも事実です。
実践の役に立つか分からない理論研究は、学問ですし自由にやればいいのですが、多くの人の人生を左右する実践で、実践不可能な理論を無理矢理実行することが、「科学」以前に「倫理」や「道徳」の面から「正しい」と言えるのか疑問です。現に、マルクスの理論の共産主義は、理想とはかけ離れた結果を多くの国で引き起こしました。実践することができない理論だと証明されたのに、「やり方が不味かった」等と言うのだとしたら、実践可能な方法を提示すべきですが、共産主義者はその方法について明確に答えていません。

このように言い訳したり後出しで違う前提を持って来るようでは、いくら反証しようが無意味になります。反証可能性がありません。
つまり、反証可能性がないのだから「科学」たり得ません。信じるか信じないかの宗教の世界へ再び戻ってしまうことになります。何とでも言い逃れできる仮説や理論は、「科学的」ではないのです。
反証されれば、仮説やモデルの誤りを認めて、抜本的に修正あるいは破棄するのが、「科学的」な態度と言えます。

なお、反証主義の立場では、物理や化学といった自然科学だけではなく、経済学や社会学といった社会科学も反証可能性があれば「科学」と言えるようになります。思想や歴史、哲学といった人文科学も反証可能性がある形で示せば「科学」たり得ます。詳しくは後で説明します。

以上のように、反証主義では、反証可能性の有無が「科学」であるか否かの基準になり、それが有効な定義の仕方だということが分かりました。
そして、反証可能性がある形で理論を構築して、それが現実と合致しているか検証し実証することになります。

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4 実証と反証の関係

(論理)実証主義と反証主義の「科学」の捉え方の違いが理解できたでしょうか。両者の違いが理解できたら、両者の良い所取りをして、「科学的に正しい」ということをまとめます。
(論理)実証主義ではなく反証主義の立場を採れば、検証可能性があるかどうかではなく、反証可能性があるかどうかで、「科学」であるかどうかが決まります。したがって、厳密に検証できなくても「科学」であると言えるようになります。

「科学」の定義…反証主義の採用
「科学」⇔反証可能性がある
→厳密に検証できずとも「科学」である

そして、反証主義の立場では、「科学的に正しい」とは、今現在、反証されていない状態を意味しました。
つまり、仮説が「間違っている」ことが証明されていないので、「科学的に正しい」と考えています。
しかし、反証主義の立場でも、実証されていなくても、反証さえされなければ、「科学的に正しい」と言えるわけではありません。
仮説検証を経て実証されていなければ、「科学的に正しい」とは言えません。

「科学的に正しい」の定義
今現在、反証されていない状態
しかし、仮説検証は必要

ですから、反証主義でも、検証され実証されて初めて「科学的に正しい」と言えるようになります。
もし検証をされていないならば、それは仮説のままです。仮説なので、合理的な説明ですが、事実と合致しているかは不明のままです。
仮説が検証されて事実と合致しないことが明らかになれば、反証されたことになるので、「科学的に正しい」とは言えなくなります。

仮説は、実証されて初めて「科学的に正しい」と言える
検証されていない場合仮説は仮説のまま
検証されて事実と合致しない場合仮説は反証された 

結局は、(論理)実証主義だろうが反証主義だろうが、検証と実証が「科学的な正しさ」があるかどうかの判断をする基準になります。
両者の違いは、(論理)実証主義では、検証できないのなら「科学」ではないと切り捨ててしまうのに対して、反証主義では、検証ができないかどうかは「科学的な正しさ」の問題であり、反証可能性があれば「科学」だと認めていることになります。
反証主義の方が、「科学」として価値のある研究対象が広がります。

また、(論理)実証主義を厳密に守れば、一般的で抽象的な仮説やモデルは存在し得ないことになります。
他方で、反証主義では、反証可能性を認めている限り、「科学的に正しい」一般的で抽象的な仮説やモデルは存在することになります。

しかし、このとき、反証主義の立場を採ると、実証された「科学的に正しい」事柄でも、間違える可能性がある形で示されていることが気になります。一応は「科学的に正しい」と実証されていても、間違える可能性が消えていないことになるからです。
つまり、反証主義では、実証されても、反証されていない限りで、「科学的に正しい」だけです。
そして、すべての場合を調べることが現実的に難しいのですから、反証される可能性は常にあります。
したがって、仮説や理論が実証されて「科学的に正しい」ことは、必ず常に絶対「正しい」ということを意味しません。
結局、(論理)実証主義であろうが反証主義であろうが、絶対不変の「正しさ」は証明できないことが分かります。
図27.1.実証と反証の違い 画像クリックで拡大 


ですから、私達は、実証されたと言っても、「科学的に正しい」確率が高いだけということを自覚しておかないといけません。
こうした、ある事態が成立する確率が高いことを蓋然性 probability が高いとか、確度 accuracy が高いと言いました(第 I 部 論理的思考 第5章 帰納法 2 帰納法の問題点)。
つまり、反証可能性を持った仮説や理論が、「科学的に正しい」と言える確実性がどれだけあるのかが問題になります。

ですから、実証するための検証では、観察される個別的で具体的なデータの数を増やせば増やすほど、仮説や理論の確からしさが増大していきます。これが確証性の原理です。「確証」confirmation が、「間違いない確かな証拠」なので、証拠が集まれば集まるほど、確実だと考えるようになることです。

以上のように、「科学的に正しい」というとき、
「科学的に正しい」ことは、常に反証される可能性があること。
同時に、「科学的に正しい」ことは、検証で調べたデータの多さに応じて蓋然性が決まること。
この2つのことに注意しておいてください。

なお、「科学的に正しい」ことを証明することを「実証」と言いましたが、反証主義では、正確には「実証」と言えないと考えられます。
反証主義での仮説検証と実証の意味を確認しておきます。

いくらデータを集めたり実験を行っても、現実問題として、すべての場合を調べ尽くすことはできませんでした。何千何万回と仮説が「正しい」ことを支持する結果が得られたとしても、次の1回で仮説を否定し「間違っている」ことを意味する結果が得られる可能性が排除できません。
ですから、「科学」の仮説は、常に間違う可能性、つまり、反証可能性があるわけです。

仮説には反証可能性がある
→すべての場合を調べ尽くすことは不可能
→「正しい」ことを証明しても、常に「間違っている」可能性を排除できない

このデータ収集や実験を検証過程を良く考えてみると、見方が変わります。
つまり、「正しい」ことを証明する「実証」をしているというより、「間違っている」ことを証明する「反証」をしようとしている、と理解できます。

まず、大前提として、何回やっても完全に「正しい」ことは証明できないのだから、直接・積極的に「正しい」ことを証明することはできません。
「科学」である限り、反証可能性は排除できないので、「データや実験から、仮説が正しい」と「実証」できません。
もし反証可能性がなくなったら、「科学」ではなくなってしまいます。

「科学」⇔仮説に反証可能性がある
反証可能性がない⇒「科学」ではない
 ↓
データや実験から仮説が正しいと実証できない

ですから、間接・消極的に「正しい」ことを証明します。
そのために、反証、つまり、「仮説が間違っている」ことを証明しようと試みます。
そして、反証しようと試みたが、「データや実験から、仮説が間違っている」ことが証明できなかったとします。
「間違っている」ことが証明できなかったので、「仮説は間違いではない」ことが証明できたことになります。

間接・消極的に「正しい」ことを証明
→仮説の反証を試みる
→反証失敗:「間違っている」と証明できなかった
→仮説は間違いではない

「間違いではない」ことは、「間違っている」の否定の形です。これは、「正しい」場合と、「間違っている」か「正しい」か分からない「不明」の場合があるので、すぐに「正しい」ことを意味しませんが、いずれにしろ「間違いではない」ことは証明できたことになります。

「間違い」ではない
間違い ←否定
・不明
・正しい

そして、データ収集と実験によって、仮説が「正しい」ことも確かめられているはずです。
そうすると、すべての場合を調べたわけではないが、「間違っている」ことの証明である「反証」にも失敗したし、「正しい」ことの証明である「実証」も一応はできていることになります。
この「実証」は、完璧な証明にはなりませんが、「反証」できなかったことも確かなのです。
ですから、「間違いではない」という意味において、「正しい」と考えることができます。

「間違い」ではない
間違い ←否定
・不明
・正しい ←実証

このように、反証主義で考える仮説検証では、仮説を「実証」する作業ではなく、「反証」する作業をしていることだと理解できます。
これを踏まえると、「科学的に正しい」と証明されたことは、「間違っている」ことの証明に失敗していることになります。
つまり、「科学的に正しい」と「実証」されたという意味は、「反証」しようと試みたが「反証」できなかったので、「間違いではない」ということになります。

まさに、反証主義の「科学的に正しい」ことの意味が、今現在、反証されていない状態ということだということにも納得行きます。
さらに、先程の確証性の原理、つまり、観察されるデータの数を増やせば増やすほど、仮説や理論の確からしさが増大していくのが分かります。
「間違いである」可能性をデータや実験で排除して行くことで、必然的に「正しい」場合が残って行くことになります。積極的に「正しい」とは言えないけど、「間違いである」確率が低いので、「間違えではない」という意味で、消極的に「正しい」と言えることになっています。

以上のように、「科学」においては、「実証」や「正しい」という意味が、積極的で肯定的で直接的なものではなく、消極的で否定的で間接的な意味であることを覚えておいてください。そうすれば、「科学的に正しい」ということを、完全に絶対に常に「正しい」とかいう意味に勘違いすることもないはずです。


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次頁:第28章 還元主義・総合・全体論
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 参考文献
◎野矢茂樹 『論理学』 東京大学出版会
○野矢茂樹 『新版 論理トレーニング』 産業図書
○照屋 華子、岡田 恵子 『ロジカル・シンキング』 東洋経済新報社
・照屋 華子 『ロジカル・ライティング』 東洋経済新報社
・アンドリュー・J・サター著/中村起子訳 『図解主義!』 インデックス・コミュニケーション
講義で適宜使った専門知識に関する文献
・吉川洋 『マクロ経済学(現代経済学入門)』 岩波書店
・伊藤元重氏 『マクロ経済学』 日本評論社
・マンキュー 『マンキュー入門経済学』『マンキュー経済学Iミクロ編』『マンキュー経済学IIマクロ編』東洋経済新報社
・スティグリッツ 『スティグリッツ入門経済学』『スティグリッツミクロ経済学』『スティグリッツマクロ経済学』東洋経済新報社
・キング(Gary King)、コヘイン(Robert O. Keohane)、ヴァーバ(Sidney Verba) 『社会科学のリサーチ・デザイン』 勁草書房
・江藤裕之 「healthの語源とその同族語との意味的連鎖−意味的連鎖という視点からの語源研究の有効性−」『長野県看護大学紀要』2002, no4, p.95-99
・Richard P. Feynman, The Feynman Lectures on Physics, Addison–Wesley
日本語:ファインマン『ファインマン物理学〈1〉力学』『ファインマン物理学〈2〉光・熱・波動』『ファインマン物理学〈3〉電磁気学』『ファインマン物理学〈4〉電磁波と物性』『ファインマン物理学〈5〉量子力学』 岩波書店
◎Charles Eames Jr 映画の書籍化powers of ten
・文部科学省「平成17年度学校基本調査 学部系統分類表」 web
・厚生労働省 健康日本21(総論) 第6章 人生の各段階の課題 web
・東京大学 web
・ポパー 『果てしなき探求〈上〉―知的自伝』『果てしなき探求〈下〉―知的自伝』 岩波現代選書
・廣松渉 編 『岩波哲学・思想事典』 岩波書店
・思想の科学研究会 編 『哲学・論理用語辞典』 弘文堂


総論 教養と学問の前に

はじめに(テキストダウンロード)
序章 学問と議論のために

 第 I 部 論理的思考
第1章 論理的であるとは
第2章 推論方法の基礎
第3章 三段論法
第4章 演繹法
第5章 帰納法
第6章 仮説推論
第7章 類比推論
第8章 観念連合
第9章 弁証法
第10章 論理的思考のまとめ
第11章 論理と誤謬
第11章(補講) 論理と誤謬

 第 II 部 論理的な問題解決 
第12章 目的と手段
第13章 演繹法と帰納法の絡み
第14章 問題と解決
第15章 論理ツリー ― what ツリー―
第16章 論理ツリー ― why ツリー―
第17章 論理ツリー ― how ツリー―
第18章 設定型の問題と創造型の問題
第19章 因果関係図
第20章 論理ピラミッドの基本
第21章 論理ピラミッド ―現象型の問題―
第22章 論理ピラミッドの応用
第23章 論理的な問題解決のまとめ

 第 III 部 教養と学問・科学
第24章 学問と科学の定義と目的
第25章 科学の方法
第26章 定性的研究と定量的研究
第27章 実証主義と反証主義
第28章 還元主義・総合・全体論
第29章 学問と専門・教養
第30章 学問の専門分化
第31章 教養と学問

引用・参考文献
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