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Liberal Arts and Academic Disciplines

総論:教養と学問の前に >
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第30章 学問の専門分化

学問は様々な専門によって構成されていることが分かりました。専門分野の知識で分析し、教養によって総合することで、複雑で多様な問題を解決できます。
そこで、さらに、学問の専門と教養の関係をより深く理解するために、学問が私達人間の世界のありとあらゆることを対象として、専門化していることを知り、学問の歴史を学びます。哲学から始まった学問が、どのように専門分化していくのかを知ることで、学問とは何なのか、何を身に付けるべきなのかの理解を深めます。

目次
1 人間を取り巻く世界
2 専門の分類
3 日本の科学と science
4 学問・専門・教養と大学
5 まとめ

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1 人間を取り巻く世界

学問とは、「一定の目的と方法の下に行われる、様々な事象の研究活動」であり、その活動の結果たる「その研究活動の成果として得られる知識、その知識の体系や理論」を意味しました。方法目的については、もう既に説明しました。
これからは、「様々な事象」について、つまり、何を研究の対象にするのか、それによって専門分野がどのように設定されているのかを学びます。

学問の対象である「様々な事象」は、本当に様々な事柄です。
対象の広さは、自然、人間関係、人間自身。さらには、人間が作ったもの、つまりは、芸術や思想などもその対象となり得ます。
したがって、学問の対象になるものは森羅万象と言えます。
そのような多様性は多様なまま、全体は全体のまま理解すべき(全体論)なのかもしれませんが、それは非常に難しいので、理解しやすいように、研究対象の性質に応じて分類して整理しましょう。

それではまず、「自分という人間」を思い浮かべてください。
この「自分という人間」を中心に、世界を考えて行きます。「人間」は、どのように生活しているでしょうか。
図30.1.世界―人間―学問 


まず、私事になりますが、私は田舎出身で、山や川、空や海、田園風景などに親近感をかなり覚えます。
要は、自然に囲まれて育ちました。

東京と違って、自然公園のような自然を意図的に残したところに行かなくても、草木や虫や蛇等はもちろん、猪などと出会うことがありました。野生の熊と遭遇したことはありませんね。私は海よりも川派だったので、近くの川で夏は泳ぎ、冬は寒行したものです。他にも、展望台などに行かなくとも、星が結構見えたものです。
こうした自然が、人間の生活の根源です。
図30.1.世界―人間―学問 


自然が人間の生活の根源であると言っても、日本に住んでいたら、そのまま自然と暮らしていることはありません。
大なり小なり文明を基盤として暮らしています。

東京に住んでいる人は、自然よりもむしろこっちの人間が築き上げた文明の方に親しみを感じやすいのではないでしょうか。
現代では、私達の生活は自然を変更して、あるいは、自然を隔離して生きています。ビルを始めとした建物。車、電車や新幹線、飛行機や船といった乗り物。
大きな物だけではありません。携帯、スマホ、パソコンといった計算機等の精密機械は小さいですが、私達の生活に必需品となっています。
また、水道や電気、ガスといった社会基盤も欠かせませんね。
少し物質から離れますが、技術を使っているという点では共通しており、医療技術等も欠かせません。

田舎者の私は、大学受験で東京を初めて訪れたとき、ビルの高さや交通の利便性の高さ、コンビニが至るところにあるなど、文明に驚いたものです。本屋だってもの凄い種類置いてありましたし。岩波文庫が普通に売っていることも衝撃でした。
私達人間は、こうした技術や機械によって支えられた物質的な豊かさ、すなわち、文明の下に暮らしています。
図30.1.世界―人間―学問 


自然が根源をなして、文明が基盤をつくっていますが、人間は、独りでは生きていきません。
他人・他者と関わって生きています。

他人がいれば、協力して何かを成し遂げることもあれば、競争することもあります。他人がいるから、経済活動も生まれます。集団の中で活動すると、争いごと・揉め事も起きます。したがって、円滑に物事が進むように、法律や制度や組織といった集団の約束事をつくります。そして、人間は集団の中で、様々な感情を持ち、思考をして活動します。
このように、人間は集団を形成し、社会をつくり、人間関係を築きながら生きていきます。
図30.1.世界―人間―学問 


自然を根源とし、文明を基盤として、社会の中で活動して生きる人間は、様々な文化を生み出します。

自然や文明や社会、人間や文化についての考えを思想としてまとめたりします。あるいは、こうした物事の根本原理は一体何なのかと哲学することもあります。はたまた、神という存在まで創り出し、宗教を興すかもしれません。そして、人間のこうした活動は歴史として紡がれています。また、思想や考えを言語化して本を記したりもするでしょう。文学の他にも、絵を描いたり、像を作ったり、音楽を奏でたりもします。文化と言えば、まずは、いわゆる芸術を思い浮かべる人が多いかもしれません。

こうした文化は、人間自身を表現した精神的な産物です。人間はただ生きるのではなく、文化と共に生きています。
図30.1.世界―人間―学問 


自然を根源とし、文明を基盤として、社会の中で、文化と共に生きる存在が、人間です。
こうしたことを可能にしているのが数字や論理です。なお、数字や論理も人間が生み出した産物とも言えます。

よくよく考えてみると、数字あるいは「数」というのはかなり抽象的な思考の産物です(第 II 部 論理的な問題解決 第15章 論理ツリー - what ツリー - 7 トップダウン(逆算)方式)。
例えば、「リンゴ A」と「リンゴ B」があるとき、どちらも別々の具体的な個体です。
別々の具体的な個体なのに、私達は「リンゴ」が「2玉」あると考えることができます。
これは、別々の個別的な個体である「リンゴ A」と「リンゴ B」の具体的な形や大きさを捨象して、抽象的な概念としての「リンゴ」と捉えており、その抽象的な概念としての「リンゴ」が「2つ」あると考えているからです。



このように、数字あるいは数という概念は、個別的で具体的な対象を抽象的な概念の中で捉えることで、生み出されたものです。つまり、人間の思考の産物です。

そして、人間が言葉で明確に定義した抽象的な概念は、頭の中に存在していても、自然の中に事物として存在はしていません。
確かに、個別的で具体的な「リンゴ A」と「リンゴ B」は、自然の中に存在はしています。しかし、抽象的な概念の「リンゴ」は、自然の中には存在していません。形も大きさも違うのに同じ「リンゴ」だと人間が頭の中で考えているだけで、実際に、自然の中に存在しているのは、個別的で具体的な「リンゴ A」と「リンゴ B」です。

こういった抽象的な思考を通して、人間は「数」という概念を使っています。
そして、「数」の概念を使うことで、人間存在の根源である自然、人間存在の基盤である文明、人間の存在と関係性である社会、人間存在そのものと精神を表す文化の中に、数字あるいは「数」を発見できるようになります。
あるいは、「数」の概念を使うこと自体が抽象的な思考をしていることを意味するので、数字としてではなとくも、対象がかなり抽象的に見えて来るようになります。

また、論理も数字と似たようなものです。
自然の中にも、文明の中にも、社会の中にも、人間自体にも、「論理」を「リンゴ」のような確固とした事物として見つけ出すことはできません。「数」と同じように、事物を抽象化することで、あるいは、事物同士の関係を抽象化することで、「論理」を見つけ出しています。
実際に、第 I 部 論理的思考からずっと学んで来た「P ⇒ Q」といった様々な論理は、色々な問題や対象や物事を分析・総合する過程で何回も見い出してきました。

このように、論理も数も普通に生きているだけでは、人間存在の根源である自然、人間存在の基盤である文明、人間の存在と関係性である社会、人間存在そのものと精神を表す文化の中のどこにも見つけ出すことはできません。
しかし、そうした具体性から1段上に次元を上げた抽象的な思考では、文化と同じで人間が生み出したものではありますが、確かに、論理も数も存在しているのが分かります。
つまり、人間は、論理と数の世界に包まれて生きています。
図30.1.世界―人間―学問 


以上のように、「自分という人間」を中心にして、私達が何に囲まれて生きているのかが分かりました。
人間を取り巻く世界は、
人間存在の根源である自然、
人間存在の基盤である文明、
人間の存在と関係性である社会、
人間存在そのものと精神を表す文化、
人間が抽象化した論理と数、
この5つに大きく分けることができます。

私達の生活は、この5つの分野に囲まれて、あるいは、5つの分野が重層的に重なって成り立っています。
そして、学問の研究の対象は、世の中のことほぼ全てと言えました。
したがって、人間を取り囲む世界が5つに分けられたことに対応して、学問の専門も5つの分野に大きく分けられることになります。
図30.1.世界―人間―学問 


人間存在の根源である自然を研究する専門分野を、自然科学と呼びます。英語では、natural sciences です。
人間存在の基盤である技術や制度等の文明を研究する専門分野を、応用科学と呼びます。英語では、applied sciences です。
人間の存在と関係性である社会を研究する専門分野を、社会科学と呼びます。英語では、social sciences です。
人間存在そのものと精神を表す文化を研究する専門分野を、人文科学あるいは人文学と呼びます。英語では、humanities です。
人間が抽象化した論理と数を研究する専門分野を、形式科学と呼びます。英語では、formal sciences です。

学問の対象の広さが理解でき、その対象の性質に応じて専門分野がどのように分けられているかが分かりました。

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2 専門分野の分類

学問と専門を大きく分けるとしたら、どのように分類されているのかが分かりました。ここで、気付くことがあります。
5つの科学を英語で言うとき、sciences が付いていない分野が1つあります。それが、humanities です。では、なぜ humanities だけ sciences が付いていないのでしょうか。

これを理解するには、学問がどのように複数の専門分野に分かれていったのかという歴史的な過程を知ることが必要になります。ここでは、哲学史を一から丁寧に追うことはせず、大雑把に概観します。

まず、学問の起源は、紀元前7世紀頃の古代ギリシアに求められます。
学問の始まりであり、紀元前7世紀という時代の古さからも、予想できるかもしれませんが、この頃の学問は、現代のように専門分野に細かく分けられていませんでした。
考えて、真の知識を得ること全てが、学問として一括りにされていました。

そして、考えること、真理を求めることを哲学 philosophy と言いました。
philosophy の語源は、古代ギリシア語の philosophia です。philo が「知」を、sophia が「愛」を意味します。

philosophia「知を愛すること」
=philo「知」+sohia「愛」

したがって、古代ギリシア語 philosophia に由来する英語 philosophy は「知を愛すること」を意味します。
知を愛するために、真に正しい知を求めて、世界の根源、万物の根源は何なのかについて考えていました。哲学者が、色々なものを考察して、「これこそが万物の根源だ!」と思い思いに語っていました。

また、哲学とは別に、生きるために必要な食糧や衣服、家も作らないといけません。さらに、怪我や病気をすれば、治す必要もあります。
こうした真理の探究とは別の生きるための術が、技術 technology です。技術も哲学の知を利用しますが、古代ギリシアでは一段低いもの、語弊を怖れずに言うなら、奴隷がやるような卑しいものと見られていました。

それから時代が下って、紀元前4世紀頃になると、色々な考え ideas が出て来て、哲学の内容も豊富になりました。今の科学的な見地から言えば、誤りであることも多くありましたが、一応論理的に体系的な説明がいくつか出てきました。
多くの哲学者が好き勝手に言ってきた内容を、大哲学者のアリストテレスが分類して整理しました。

それでも、専門化していくことはなく、学問は、学問として全体を理解するべきだと思われていました。これは、学問の目的が真理の追究だからです。
真理であるからには、1つの分野を知っているだけでは不十分です。「真理を知れば、すべてのことが理解できる」と考えれば、1つの分野に専門化することは、真理の一部を知ることであっても、真理のすべてを理解することに繋がりませんからね。

この伝統は、古代ギリシアの遺産を引き継いだ古代ローマでも、中世アラビア・イスラーム世界でも同じです。
イスラームは、古代ギリシアと古代ローマが支配していた地域を征服することで、古代ギリシアの文献を大量に手に入れることができ、学問を発展させることができました。



西ヨーロッパでは、4世紀にローマ帝国が滅んでから、古代ギリシアの学問、つまり、哲学 philosophy が停滞していました。
その代わりに、キリスト教が学問の中心となり、神の存在について考える神学 theology が主流を占めました。
神学は、自然や人間を聖書に基づく神の世界で理解しようとする学問です。
所々、古代ギリシアの哲学が見直されることもありましたが、神学が主流となる時代が約1000年も続きます。13世紀のイタリア神学者トマス=アクィナスは、「哲学は神学のめ(はしため)」と言いました。哲学は、あくまで神学の理論を補完するために研究されていたに過ぎないことが分かります。神学と矛盾することがあれば、哲学の内容は否定されました。

神学が盛ん中で、11世紀以後、キリストの聖地エルサレムをイスラーム教から回復することを目指す十字軍の遠征が本格化します。また、レコンキスタという国土回復運動に代表されるイスラーム勢力を南ヨーロッパから追い出そうとする運動も起こってきます。

こうして、イスラーム世界と接触すると、西欧ではほぼ忘れ去られた古代ギリシアの哲学が、一挙に西ヨーロッパに舞い戻って来ました。先程言いましたが、古代ギリシアの哲学は、イスラーム世界でよく保存され研究されていたからです。
こうして、14世紀頃になると、神学とともに古代ギリシア哲学に基づいた学問の状態が現れます。



このとき、哲学 philosophy の中でも、物体の運動や物質の反応・変化等の自然現象について考える分野を自然哲学 natural philosophy と呼ぶようになります。
そして、それ以外の分野は、そのまま哲学 philosophy としてまとめられていました。

哲学と自然哲学の関係を考えると、人間か、人間以外かという分け方になっています。
人間について哲学するものが哲学としてまとめられて、人間以外すなわち自然について哲学するものが自然哲学として分けられます。

もちろん、神について考える神学 theology も残っています。自然哲学と哲学にも神学の影響が強く見てとれます。
哲学を人間か人間以外の自然かに分ける方法は、キリスト教の思想を見て取れるからです。
キリスト教では、神は唯一にして絶対であり、万物の根源です。
したがって、「神は自らの姿に似せて人間を創った」という考えがあります。そして、自然 nature も神が創りました。
「神に似せて創られた人間」は、人間以外の神が創ったものを理解し支配することが、神の意思だと考えるようになります。
ですから、自然哲学 natural philosophy の研究対象は、神が創った人間以外の物である自然 nature になるのです。
そして、哲学 philosophy の研究対象は、神が創った人間とその人間が創った物です。
このように考えれば、哲学が人間と自然で区別されることに理由があるのが分かります。

自然哲学では、天文学・物理学と化学が主でしたが、それでも特段に専門化がなされることはありませんでした。
自然哲学者は自然全体を考えるのが普通でした。また、自然を研究する自然哲学者であり、同時に人間の存在について考える哲学者でもありました。人間について考え哲学をしながらも、特に自然について考えているという状態が普通のことでした。

そして、自然哲学者は、できるだけ自然を正しく客観的に捉えようと努力をしました。
自然をじっくりと観察して、色々な実験もしました。これはルネサンス期以降の理性の時代による産物です。

理性とは、推論する能力のことです。
推論が既知のことから未知のことを論理的に導くことを意味するので、ルネサンスの理性の時代とは、既に知っていることから始めて未だ知らないことを論理的に導こうとする時代と言えます。
自分が目で見て確かめたもの・確固として存在するものを前提にして、論理を組み立てることが追求されました。

こうした哲学の研究は、最初は神学を否定するつもりはなく、より正確に神の存在と真理を正しく知ろうという試みでした。
神学の理論を補強するつもりだったのです。理性によって、自然を理解することが、神へと近づく方法だと考えたからです。

しかし、理性によって研究を進めていく内に、理性による論理的な説明と神学の説明が矛盾することが増えてきます。どうも神学の理論がおかしいぞ、という結果になってしまいました。自分の目で確かめ、経験したことの方が、教会が言っている内容よりも信じるに値すると考えられるようになっていたのです。

ともかく、これは神学者が聖書に基づいた理論で自然を説明しようとしていた態度に比べて、かなり現代的な学問的態度です。

こうして17世紀には、ガリレオやニュートン等の自然哲学者が現れてきます。これは今の天文学や物理学に繋がって行きます。
この自然哲学の発展は、数学の発展と同時に起こっています。
物理現象を数字で捉えて、数式化することで、何が起きるのか正確に予測できるようになっていきました。

同じく17世紀には、ボイルという自然哲学者出てきます。彼は今の化学に繋がる分野の基礎を作り上げて行きます。
化学は、哲学と少し異なる分野で発展しており、錬金術に由来します。が、自然哲学者が研究を進めることで、自然哲学の仲間入りをします。
錬金術は、物質を自由に精製できないかと追求しており、主に金を製造する方法を研究していました。これが、化学の物質の反応等の研究に繋がって行くことになったのです。

このように17世紀には、現代の自然科学に繋がる理論や方法の基礎が形成される時代でした。
イギリスの科学史家バターフィールドは、こうした17世紀の科学の大変化を科学革命 the scientific revolution と呼びました。
今までの古典的な哲学から、現代でも使われる実験と観察に基づく科学的方法による研究へと繋がる画期的な変化だったからです。

自然哲学で色々な自然現象が分かってくると、これを利用して色々な技術 technology が生まれたり発展します。工学や建築学の技術の発展です。
17世紀の段階では、基礎的な理論が生み出されて整理されているので、それを技術として本格的に利用するのは18世紀まで待たないといけませんでしたが、色々な考えが考案されて、工学や建築学が発展しました。



自然哲学の知の利用たる技術の例として、18世紀のことになりますが、蒸気機関等があります。
蒸気機関の発明は、文明を一気に発展させることになりました。
従来は人の手でやっていたことを機械できるようになり、人力では考えられない程の短い時間で大量に仕事ができるようになりました。こうした大変革が、18世紀後半から起きた産業革命 the Industrial Revolution へと繋がって行きます。

自然哲学が物理学や化学を中心としていたと言いましたが、動物や植物、地形なども自然ですね。こうしたものは、当時は数学となじまなかったため、自然哲学と区別されて、博物学として発展します。英語では natural history なので、自然史学 と直訳してもいいかもしれません。

自然を研究すると言っても、自然には何が存在するのか知っておかないと、研究対象が分かりません。ですから、哲学と同時に自然に存在するものを集める学問として博物学(自然史学)があったわけです。
博物学(自然史学)は主に動物・植物・鉱物を集めて分類する学問です。

分類とは、事物をその種類・性質・系統などに従って分けることです。
したがって、分類するためには、集められた物の特徴をよく観察して、共通点や相違点を見つけ出さないといけません。
共通点や相違点に基づいて分類をしていけば、より正確に厳密にもっともっと小さな違いはないかと疑問が湧いてきます。
そんな時に運良く、物理学の発展によって、肉眼では見えないような微小な物も見ることができる顕微鏡が発明されました。色々な器械が発明されることで、より厳密に細かく観察できるようになり、大発展をしていくことになったのです。

さらに、15世紀半ばから17世紀は、大航海時代です。西ヨーロッパ諸国が競ってアメリカ大陸、アジア大陸、アフリカ沿岸部に進出して行った時代です。こうして、世界中の物をヨーロッパに集めることができました。見たこともない物や、話に聞いたことがあっただけの物がヨーロッパにやって来ました。つまり、新たに分類しないといけない物も激増していたわけです。

こうした中で、18世紀になると、生物学の原型もできてきます。
動物や植物を集めて、その形や大きさ等の特徴に応じて、様々に分類していく分類学が発達します。スウェーデンの博物学者リンネが分類学の父と言われています。
顕微鏡によって細胞を観察できるようにもなります。それに応じ解剖学も発達します。人間の身体にしろ動物の身体にしろ、植物にしろ、部分に分解して、何がどのような機能を果たしているのかも研究が進んで行きます。

そして、生物学が発展することで、技術 technology として、薬学や医学、農学が発展していきます。

また、18世紀には、地質学の基礎も整ってきます。17世紀には、地球がどのように成り立っているのかという論争が、自然哲学者と神学者の間で過熱していました。
地質学側の代表がデンマークの学者ステノです。
18世紀になると、化学の発達に合わせて、地球の鉱物を詳しく調べることができるようになりました。おまけに、産業革命によって採掘技術が向上しており、色々な地層を発掘もできるようになりました。こうして、地質学が一気に発展していきます。



自然哲学と博物学(自然史学)が大発展している傍らで、哲学に残されたものはどうなったのでしょうか。

自然哲学の発展は、技術 technology だけではなく、哲学に残された分野をどう考えるかについても大きな影響を与えました。
つまり、人間の行動と関係にも、自然哲学の、特に物理学に典型的な、統一的で普遍的な法則がないのかを考えるようになります。

自然哲学の分野が目覚ましい発展を遂げており、しかも、産業革命を引き起こす等、社会的な影響力が強大であったため、多くの哲学者は、自然哲学のような法則が見つけられないかと考え始めたのです。
まさに、今で言うところの「科学」が、正しい客観的な事実と知識を提供してくれており、さらに、人々の生活を豊かにしてくれる非常に便利で有益なものであるという認識が徐々に強くなってきました。

こちらの哲学も、もちろん理性で考えることが中心となります。
自然哲学の発展に引っ張られて、より強固な理性万能主義、理性崇拝の時代に入って行くのです。

また、自然哲学が産業革命を準備しましたが、「革命」と言うだけあって、産業革命の前と後では、大きな変化がありました。
機械によって大量に物が作れるようになると、社会構造が激変したのです。
大量生産された製品を売るために、商人の役割が大きくなります。さらに、工場を建てて、そこで作業をする労働者を雇う必要もあるので、大金が必要になります。金を持ち、投資ができる資本家の登場です。そして、資本家は、工業製品を売って儲けたいと考えます。
そうすると、お金をどうやって回せば効率が良いのかといった、利益の最大化を考えるようになります。アダム・スミスがこれを整理して理論化しました。近代的な経済学の誕生です。

また、資本家が雇う労働者だって、初めからいたわけではありません。労働者になる人が必要です。こうした労働力の担い手は、農村に居た小作人でした。
小作人は、土地を持っていないので、土地を持っている人(つまり地主)から土地を借りて農業に従事していました。
しかし、地主はより儲けが大きくしたいので、食糧だけではなく、毛織物の原料になる羊毛をつくろうと考えました。そのために、農地を羊の放牧地にしました。羊は農作業と違って、人手がそこまで要らないので、多くの小作人が路頭に迷いました。
こうして、地主に小作地を取り上げられた小作人は、都市に移り住み、工場の労働者として働くようになります。

資本家や労働者といった、産業革命前には存在しなかった階層が生まれ、社会不安が広がります。
こうして、社会がどのように構成されており、機能しているのかといったことも考察する対象となります。18世紀のサン=シモンによって、現代程に整備されていませんが、社会学の原型が現れます。19世紀になれば、前に実証主義で紹介したコントが社会学を確立します。

政治学も変わってきます。
今までは、道徳的な政治とは何か、正義とは何か等といった規範を述べる哲学的なものが主でした。しかし、現実に起きている政治を観察して、何が起きているのかをじっくり分析する政治科学が形成されてきます。
さらに、19世紀には心理学や人類学も確立していきます。
このように、自然哲学以外の哲学でも、普遍的な法則が存在しないのかと探究がなされていきます。

以上のように、まず、自然哲学は物理学・化学等に分化していきました。
その影響下で博物学(自然史学)も生物学・地質学に分化していきました。
さらに、自然哲学のような体系性と法則性を目指して、哲学も政治科学・経済学・社会学等に分化して行きました。

そして、各専門が細かく分けられるだけではなく、各専門分野が深いものになっていきました。
現代の学問と専門 disciplines に似た状況です。一人が自然哲学も哲学もすべて深く理解することが難しくなっていきます。

こうして、19世紀半ばには、各専門 disciplines をまとめて、1つの科学 sciences の名前が与えられ定着しました。
science とは、「特定の主題における知の体系」を意味します。ですから、各専門 disciplines をまとめて、体系化したものが科学 sciences になります。



博物学(自然史学)を含む自然哲学が、自然科学 natural sciences となります。
さらに、自然科学の中で、自然哲学を中心とする天文学・物理学・化学、そして博物学(自然史学)の地質学が、物理科学 physical sciences としてまとめられます。
物理科学では、物質の運動や反応などを研究します。そして、対象をより基礎的な要素に還元していくことができます。要素還元主義的な分析と相性がいいです。

注意してもらいたいのが、地質学が生物学と同じ博物学から発展して来たのに、物理学と同類のものとして分類されるようになったことです。これは、科学が発展して、鉱物や地層等を物体・物質として研究するようになったからです。

博物学(自然史学)の生物学は生命科学 life sciences となります。
生物学は、細胞や生体反応等も研究しますが、動物や植物の生態や進化の過程を明かします。生命現象全般が対象になっています。物理科学と異なり、小さく小さく要素に分解していっても、中々分からないことが多いので、生命科学は物理科学と区別されています。物理科学が要素還元主義と相性が良かったのに対して、生命科学は全体論と相性が良いことが分かります。

そして、哲学の中で、人間の行動と人間関係に関する分野が社会科学 social sciences となります。
社会科学も自然科学のような科学的方法に則って研究しようとしている点で、一定の方法があります。つまり、科学的方法 scientific method に基づいた観察―仮説形成―仮説検証という循環の下に発展していく「科学」science となったわけです。

そうすると、哲学に残されたのが、数学と論理学、そして、哲学・倫理学・思想・言語学・文学・歴史・芸術等だけになります。

まず、数学と論理学は、哲学・倫理学・思想・言語学・文学・歴史・芸術等と毛並みが違うことがすぐ分かります。
数学は、物理が数学を利用しまくることから分かる通り、自然科学あるいは自然哲学と共に発展しました。
ですが、数学自体は自然ではありません。
ですから、自然科学に含むのはいささか問題ありです。もちろん、自然科学として考えても差支えないとする人もいますが、この講義では、わざわざ少し細かく見て来たので、自然科学には含まれないものとして考えます。

数学は、自然現象の関係性を数式で表すことができます。それは論理によって構築されています。
また、論理学も、理性に基づく上で、必ず使います。
既知の事柄から未知の事柄を論理的に導く推論をするには、論理学なしには考えられません。実験と観察を軸にする自然科学にしろ社会科学にしろ、言葉で説明しますが、その言葉が意味することの正しさを担保しているのは、論理です。

このように、数学と論理学は、具体的な事柄を規律している約束事であったり、具体的な事柄を成り立たせている枠組みであったりします。
つまり、数学と論理学は、実験や観察を通さずに、具体的な事柄の機能や意味を考えずに、抽象的な論理の整合性のみを研究しているものと捉えられます。
この数学と論理学を形式科学 formal sciences としてまとめます。

こうして、数学と論理学が形式科学として独立しました。哲学に残ったのは、哲学・倫理学・思想・言語学・文学・歴史・芸術等になりました。これらは、どれも人間が創り出したものです。
哲学や倫理学や思想は、人間の創り出した考え方の体系であったり、概念について考察する学問です。
言語学は、人間が話す言葉を研究します。言葉は、自然にあるものではなく、人間が創り出したものです。
文学は、人間が創り出した考えを言葉で表現したものを研究します。
歴史学は、人間と人間社会が経験してきた変遷や発展の経過の記録を研究するものです。
芸術は、人間が創り出した考えを、絵画・彫刻・建築・音楽・演劇・舞踏・映画等で表現したものを研究します。

どれも人間が創り出したもの、しかも、主に精神的な活動である文化を研究しているのが分かります。
自然科学のように、自然を対象にしていません。また、社会科学と同じように人間に関係はしていますが、社会科学が人間の活動と関係に注目しているのに対して、これらは、人間の精神活動やその表現といった文化面に注目している点でかなり異なることが分かります。

こうした人間それ自身および人間の文化に関することは、科学 sciences から切り離されて humanities として分類されるようになりました。
それゆえに、humanities は「人文学」と日本語訳されます。

「人文学」に分類された哲学・倫理学・思想・言語学・文学・歴史・芸術は、他の科学 sciences のような実験と観察を主とする形で発展しませんでした。「人文学」は解釈と論理的整合性、あるいは、直観的な正しさ(もっともらしさ)を重視して発展して行きます。

それでも、「人文学」は、各専門分野 disicilines が集まっており、その各専門それぞれで深くなっています。
そういう意味では、「人文学」は、自然科学や社会科学と同じように専門分野 disciplines に分かれています。
そして、専門分野に分かれているわけだし、自然科学と社会科学に呼び方を合わせた方がよいと考えて、「人文科学」と日本語に訳す場合もあります。

ただし、「人文科学」という呼び方に対して、批判も少なくありません。
日本語の面から言って、翻訳元の英語に sciences という言葉がないのだから、「人文学」の方が適切だと主張する人も多いです。
また、「科学」sciences が、ここまで発展できたのは、「一定の方法の下で」「実験と観察を通して検証できる」おかげです。「科学とは方法である」ことを重視する人にとっては、実験も観察もできず検証もできない humanities は「科学」sciences たり得ません。
こうした「科学とは方法である」ことを重視する意見を持っている人は、特に自然科学の専門家に多い気がします。思想は、皆がもっともらしいことを好き勝手に言ってるだけですし、歴史の因果関係だって検証できないのだから本当に正しいのかどうか分かりません。
そういう意味では、humanities は「科学」sciences と言うことは厳しいです。

でも、この講義では、学問=科学と捉えて、「一定の目的と方法の下に行われる、様々な事象の研究活動」であると最初に述べました。ですから、humanities が狭い意味での「科学的」ではないからと言って、「科学」ではないとは考えません。
humanities だって、humanities の中で確固とした資料に基づいて、論理を構築しています。その確固とした資料が誤りだったり、論理自体に問題があると分かれば、その主張は破棄されます。
そういう意味では、「科学」として扱っても問題ないだろうと私は考えたからです。

例えば、歴史学だって、実証的であろうとしています。
特定の思想の下に、それに都合が良いような歴史を綴るのではなく、史料を批判的に読み、他の史料との整合性等とつき合せて、客観的な歴史を描こうとするのが主流になっています。

また、実験と観察ができないという批判は、社会科学にも当てはまります。
多くの人の人生がかかっている現代社会の制度をガラッと変えることは難しく、理論仮説が実証できたと言えるほどの社会実験は基本的にできませんからね。

ですから、この講義では、humanities を「人文科学」という日本語訳で使わせてもらいます。

ただし、注意点があります。
人文科学に「科学」とついていも、自然科学のように実証もできませんから、自然科学と同程度の正しい確率はありません。ですから、思想等は、実証できずに仮説は仮説のままなことがほとんどです。論理的に構築されていても、実証されていない限りは、正しそうに見えるだけです。
考えと考えの結びつきは自由であり、何でもアリ的な面があります(第8章 観念連合参照)。もっともらしく見えるのも単なる偏見や先入観から、そういう風に見えているだけかもしれません。何か重要な事実を見落としている可能性だって大いにあります。
ですから、何か真実を言っているように感じられる思想に触れて、その思想に影響されるだけではなく、正しいと信じ込んで染まり切って、暴走するような愚かな真似はしないように気を付けてください。思想は思想です。正しいかどうかなんてのは、個人々々、場合々々、所々、時代々々によって異なります。何事も寛容に受け止めてください。

話を、科学の専門の分類に戻します。
古代ギリシアでは哲学と区別されていた技術 technology も科学 science となります。
技術が、文明社会を発展させるのに非常に役立つものと認識されるようになったからです。まさに科学を応用した技術なので、科学技術と呼ぶに相応しいものになります。
また、技術は、応用した科学、すなわち、応用科学となります。英語では applied sciences です。
工学・建築学、薬学・医学・農学・獣学等は、自然科学の知を応用した技術です。

こうして19世紀、特にその後半に学問の専門分化が進み、その専門分化した各分野を科学として整理しました。



ここで地質学という専門分野が広く深くなり、地球科学となります。
物理学や化学の発展、また、技術の開発が進んだために、鉱物や地質・地層を研究するだけではなく、気象や天候や海や川等、地球全体の現象に対象が広がります。
ですから、地球の成り立ち等を含んだ地球全体を研究する専門分野として地球科学が発達していきます。

また、20世紀になると、数学を応用した統計学が大きく発達します。
統計学は、現象を数値化して計算するのに利用されています。
統計学は、19世紀からずっと数学を応用した応用数学の分野で発展しており、形式科学に含まれるのが普通です。ですが、ここでは応用科学に分類しています。なぜならば、純粋な数学の面が後退し、現実に起きている事象を定量化して考えることに使われることが多く、科学を応用している面が強いからです。

統計学が、ここまで色々な分野に影響を持つようになったのは、やはり電子自動計算機の発明のおかげでしょう。電子自動計算機は、今風に言えばいわゆるパソコンPCのことです。パソコンのおかげで、短時間で複雑で膨大な計算ができるようになり、科学の全分野に影響を及ぼしています。現代では統計学なしには成り立たない専門がほとんどです。

また、電子自動計算機を用いた計算機科学、いわゆるコンピュータサイエンスも論理学と数学を用いています。これはIT時代になり、プログラミングから情報システム等、様々に分野を広げ専門化して行っています。情報工学は、今人気がありますね。



以上が、学問の専門分化の過程です。現代では、学問を修めることが専門分野を学ぶこととほぼ同義になっています。
しかし、始まりは、渾然一体の哲学という学問であったという事実は、現代の私達にとっても、示唆に富むものです。
特に、現代では学際的 interdisciplinary な研究と総合家 generalist の重要性が説かれているからです(第29章 学問と専門・教養参照)。専門分野 discipline だけを学べばよいという姿勢ではなく、多くのことに興味を持つ必要を教えてくれています。

いや無理に興味を持とうとしなくてもいいかもしれません。興味を持つのは無意識的で自発的なものであることが望ましいからです。しかし、自分の狭い専門しか知らないこと、それにしか興味がないことは、他のことを知らないことを自覚しておかないといけません。
また、色々な分野に興味があって、様々なことを調べて勉強している人は、教養があるのかもしれません。でも、専門しか知らない場合とは逆に、その主張は専門分野でもない事柄について、浅い知識と分析で語っているものだということを自覚しておかないとけません。自分の浅く広い知識から考えたに過ぎないものであり、単なる偏見や先入観にまみれた物である危険があります。

以上が、学問の専門分化の過程から見た学問と科学の対象の分類でした。

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3 日本の科学とscience

日本にこうした欧米的な学問・科学が導入されたのが19世紀後半の幕末・明治の頃です。少し日本における科学の導入について振り返ってみます。

1.欧米の科学としての学問の導入

19世紀後半の幕末までは、儒学を中心とした漢学や、日本古来の思想を研究する国学が主でした。医薬に関しては、本草学がありました。数学についていは、和算と呼ばれるものがありました。このような状態が、欧米的な学問の導入前における日本の学問でした。
この頃の日本の学問は、欧米的な学問に比べて、体系性も強くなく、実験と観察を通した科学的な検証をすることも少なかったです。

しかし、欧米的な学問に全く触れていなかったというわけでもありません。オランダと貿易していたので、欧米の科学技術に関しては、医学を中心とする蘭学で研究はされていました。それでも、貿易量も制限されており、仕入れられる書籍も少なかったので、欧米的な学問の研究は非常に限定的でした。

幕末にペリーが来日して日本が開国すると、各藩は欧米の科学技術を導入しました。
蘭学は、オランダの学問という捉えられ方から、ヨーロッパ全体の学問である洋学として捉えられるようになります。
それでも、まだ戦艦や銃等の軍事面が中心で、社会制度等についての研究は少しずつ進むといった状況でした。

こうした状況を一気に変えるのが、明治維新になります。
幕府を倒した明治政府は、文明開化の名の下に、大規模に欧米的な学問を導入しました。応用科学的な科学技術だけでなく、自然科学・社会科学・人文科学、形式科学のあらゆる学問の専門分野 disciplines が導入されます。お雇い外国人を招くだけでなく、留学生を積極的に欧米の政府機関や大学に派遣しました。



このように、欧米的な科学としての学問が、学問の中心となりました。伝統的な日本の学問にとって代わりました。
日本の伝統的な学問である漢学と国学は、日本思想の面では生き残りますが、学問の中心ではなくなります。

こうした欧米の科学としての学問の導入の成果の1つの表れが、1877年の東京大学の成立です。
と言っても、東大の設立当初は欧米の学問を専門分野に応じて、バラバラの機関が研究していたのを1つの大学にまとめただけでした。が、欧米のように総合的に研究することを目指す総合大学としての雛形ができました。本格的に総合大学としての体裁が整えられたのは1886年の帝国大学になってからです。

2.scienceの日本語訳「科学」

欧米の科学としての学問を導入する過程を見ましたが、sciences の日本語訳の上手さに改めて驚きます。
science は、「特定の主題における知の体系」を意味します。これを「科学」と日本語に訳したのは、今から見ても上手い日本語訳だなと思うわけです。

明治維新を1868年と考えるならば、欧米的な学問を導入したのが19世紀後半ということになります。ヨーロッパでは当時、学問が再編されている時期に当たります。
つまり、哲学として始まった学問が、自然哲学や博物学(自然史学)を始めとして専門分化したていたのを、改めて sciences として再編していた時期です。

確認ですが、学問は、専門分野 disciplines に分かれています。
そして、学問を英語にすると、academic disciplines です。これは、専門a disciplineが複数集められていることを表しているのが分かります。
つまり、academic discipline という単数形ではなく、academic disciplines と複数形なっていることから、学問が複数の専門 disciplines だと分かります。



1つ1つの専門 each discipline は、学問全体の一部の知の集まりです。
例えば、物理学 physics が1つの専門 a discipline、化学 chemistry が1つの専門 a discipline、経済学 economics が1つの専門 a discipline、歴史学 historyが1つの専門 a discipline となっています。
こうした専門 disciplines が、寄り集って学問 academic disciplines となります。

そして、各専門 each discipline は、色々な知識で構成されています。
この知識を体系的に結び付けて自由に扱えるのが、専門家 specialist でした。
物理学は物理学に関する知が、化学には化学に関する知が、経済学には経済学に関する知が、歴史学には歴史学に関する知が、それぞれ体系的に結び付けられて専門分野 disciplines が構成されています。
つまり、各専門分野 discipline の1つ1つが、「特定の主題における知の体系」science になっています。



そして、「特定の主題における知の体系」science である1つ1つの専門分野 each disicipline を特徴に応じて、さらに大きくまとめます。
自然に関する専門分野の集まり、
人間の行動と人間関係に関する専門分野の集まり、
人間自身と人間の創り出す文化に関する専門分野の集まり、
数と論理の世界に関する専門分野の集まり、
知の応用や技術に関する専門分野の集まり。



各専門分野 each discipline それぞれが、science であるから、複数の専門分野 disciplines を大きくまとめた集まりは、複数の「特定の主題における知の体系」science がまとめられたものだと考えることができます。
ですから、sciences と複数形で表されます。

したがって、自然に関する専門分野の集まりは、自然科学 natural sciences です。
人間の行動と人間関係に関する専門分野の集まりは、社会科学 social sciences です。
人間自身と人間の創り出す文化に関する専門分野の集まりは、人文学あるいは人文科学 humanities です。
数と論理の世界に関する専門分野の集まりは、形式科学 formal sciences です。
知の応用や技術に関する専門分野の集まりは、応用科学 applied sciences です。



したがって、〜 sciences とは、学問の専門分野 discipline が science であり、その discipline かつ science が複数寄り集められたものだということが分かります。
つまり、色々な「学」が集められたものだということです。

そこで、明治時代の西周にしあまねは、この science に、「科学」と漢字を当てて日本語訳したわけです。
「学」は、江戸時代から国学や漢学に見られるように、「知の体系性」を表していました。何かしらの知のまとまりについて使われていました。
この「学」だけでも science の訳だと言えそうですが、さらに、それに「科」を付けました。

science=科学=科+学

「科」は、「禾(イネ)」に「斗(マス)」を合せた漢字です。
「禾(イネ)」は作物を意味します。
「斗(マス)」は柄杓を表していますが、そのことから量ることを意味します。
つまり、「科」は作物を量ることを意味し、それはつまり、物事の等級をつけることであり、等級がつけられた物を意味することになります。
したがって、「科」は「分類」「順序」「等級」を意味し、「分類して配列された部門」を意味します。

science=科学=科+学
科=イネマス
作物を量る=物事に等級をつける
=分類・順序・等級
→等級がつけられたもの
=分類して配列された部門

こうした漢字の意味を考慮すると、「科学」は、複数ある「学問」の分野を「分類した部門」であることだと分かります。

science=科学=科+学
「学問」の分野を「分類した部門」
「学問=専門」disciplineを分類した部門
=science

これは、sciences が、「特定の主題における知の体系」science である専門分野 discipline が、複数集められたものだという意味を上手く言い表した日本語訳だと思えるわけです。

開国してまもない明治の時代において、当時の欧米の学問の専門分野が science として再編される状況下で、science という概念を上手く捉えて理解していたことが分かります。
「科学」という言葉は、5世紀から6世紀にかけて大陸から漢字を輸入して1000年以上の時の中で育んだ日本語に、science という概念を上手く落とし込んでいます。ローマ字文化圏でもなく、古代ギリシア語やラテン語にまったく馴染みのない日本人にも、「そういうことなのか!」と腑に落ちる理解を可能にしてくれています。

3.日本語訳かカタカナ語か

でも、私は皆さんの顔を見て気付いています。今説明した「科」の字義を知らないので、「科学」という文字からどのような印象や意味があるのか想像できなかった、という人が実は多いのではないでしょうか。分かっています。

こうした漢字への不感症は、今に始まったことではありません。
戦前からも漢学離れが嘆かれていましたしね。戦後には、欧米の学問一色に染まったと言っても言いほどに、欧米流の言説が持て囃されて、戦前の日本を否定しまくりました。国学や漢学は古い日本の象徴であり、こうしたものが悲惨な戦争に突っ込ませていった原因だという分析がなされることも普通にありました。これが正しいかどうかなんてのは分かりませんけど、まぁアメリカにボコボコに負けて皆自信をなくした上に、右翼的な言説が徹底的に排除されたので、欧米=進歩的という左翼的な言説ばかり流布して信じられてしまったのでした。

そして、21世紀の現代では、漢字の意味について考える機会の最後にして最良の砦と言えるだろう「漢文」も受験で課す大学が少なくなって来ました。今の日本は受験と関係ないことは、疎かにしても構わないという風潮がありますから、わずかな時間しかない「漢文」がさらに削られてしまっています。

さらに、グローバル化のため英語の重要性が声高に叫ばれる時代になっています。「漢文」が疎かにされることで、国語教育自体が危なくなっているのに、英語教育が一層重視されてしまっています。
確かに、エリート層である人の英語力も大したものでないことが多い現代日本では、英語教育を重視するのはいいのですが、それと同じ位国語教育も強化するべきかと思うわけです。
日本人からしたら、2000年以上文化的な背景を蓄積して馴れ親しんだ日本語を使う方が、思考等の面で余計な負担がないと思われます。が、国語教育は、ますます蔑にされて、英語教育へ力点が移っています。
日本語は日常生活で使うだけにして日本語で学問することを放棄し、英語教育を徹底すればまだいいのですが、そんなことは誰も受け入れないでしょうし、中途半端な状況になっています。
実際、日本の教育制度の下でそこそこ勉強しても、ローマ字に馴染みがなく、英語の単語の文字の並びからも語が持つ意味や文化的背景等の印象が湧かない人が多いでしょう。

特に、ビジネスやエコノミクスの世界では、日本語で言えばいいところを英語風のエクスプレッションを使うことがフリクエントです。
コンファレンスで、アイディアをプレゼンテーションしていますしね。一応、無言ではなく言葉にしているので、何かしている気にもなり・・・・・・・・・・・ますし、何だか分かった気にもなり・・・・・・・・・・・・ます。
が、しかし、ハッキリ言って、私達は英語に馴染みがないので、そういったカタカナ英語を使われると上っ面だけで滑っている感じ、つまり「皮相上滑り」の感が否めません。要は、上辺だけ真似して内実が伴っていないということです。内実がなければ、上辺を取り繕ってもすぐにボロが出ます。

▼雑談を飛ばす
それなら、何で意味を曖昧にしか理解していないカタカナ語が使われるのかと思うでしょう。この理由は、私にはよく分かりません。ですから、1つの仮説として聴いてください。検証もしていないので妄想と言えるかもしれませんが。

人間は、何かしておかないと安心できない。逆に言えば、何かをしていると、何かをしていることを以って、人間は安心する傾向があります。だから、何をしたらいいのかよく分からなくても、何かしらをしようとするものです。

そして、他人と話すときに、もしカタカナ語を使わずに皆が知っている日本語を中心にして行ったとします。そうすると、皆が言葉の定義をしっかりと知っているので、内容が勝負になります。これってかなり厳しい勝負になります。要は、内容に集中できるので、言葉をただ発しているだけでは、相手から内容のなさを簡単に指摘されることになるからです。

対して、カタカナ語を多く使うとどうでしょう。カタカナ語が曖昧だから、そのカタカナ語の意味や定義を処理するのに思考を使います。そうすると、内容に集中ができなくなります。おまけに、カタカナ語を処理するのに頭を使うので、話を聴いていると、頭を使った気になります。相手は、良い話を聴いたと勘違いする確率が高くなります。これは話し手からしたら楽でいいですね。内容がなくても、指摘されることが少なくなるからです。

かつては、カタカナ語を使うとき、日本語訳では、抜け落ちしてしまう、こぼれ落ちてしまう微妙な意味・機微があることを相手に伝えるために、日本語訳ではなくそのままカタカナ語を使うことがほとんどでした。そうした機微が主張において大切になるから、そうしていたのです。しかし、現在の状況を鑑みるに、そうした機微が読み取れないようなカタカナ語の使われ方がされています。

おそらく、自分を頭良く見せようとする人が、インテリの真似をして、世間に広まったのでしょう。そして、大学の大衆化で、意味も解らずに周りにつられたり、インテリの真似をしている人の真似をして一気にこのような状況になったものだと予想されます。
仮に、カタカナ語をぶん回している人が皆、そのカタカナ語を深く理解して使っているのなら、世の中は意義深い内容を持った言葉が溢れていてもいい気がするので、多くの人はよく分かっていないのでしょう。
そして、言葉を発する安心感に包まれながら、言葉の量に対して、利口にはならないのでしょう。むしろ、意味がよく解らない言葉を使い続けることで、自分が何を話しているのかよく解らないまま、何かを言ったという事実だけが積みあがって行き、その積み上げが自信となり、余計に馬鹿になっているのかもしれません。
▲雑談に戻る

だからと言って、日本語ならどうなのかと言えば、こちらも問題がありです。英語教育の重視で国語教育が疎かになっているからです。

漢字や日本語の意味が元々どういった成り立ちがあるのかすら知らず、それゆえに、日本語力も低くなっています。
現に、ここにいる皆さんの多くは、日本人で日本語を話すのにもかかわらず、「科学」という単語を見ても、もう何かしら具体的な印象が浮かばなくなってましたね。

それでも、「科学って science のことだろ?」って言う人がほとんどでしょう。
さすがに、「科学」が何なのか知らない人は、ほぼいませんからね。でも、science(サイエンス)ってカタカナ語ですね。「サイエンス」の日本語訳が「科学」なので、英語の授業で日本語訳を問われているのではない限り、これで説明が終わっていては、意味がありません。「科学とは科学である」と言ったら同義反復で何も言っていないのと同じです。
したがって、「science って何?」ってことになるはずです。

でも、英語やローマ字になれていないので、science からも何か具体的な印象は浮かんできません。
英語が持つ文化的な蓄積を肌で感じながら育ったわけではなく、学校のわずかな勉強でしか触れないから、英語の単語が持つ長い歴史や文化的背景が感じ取れないのです。

このように、実は何だかよく分かっていないのに、「科学とは science である」と説明すると、何だか分かった気にはなれます。そして、この段階で終わっている人が実に多い気がします。
人間は、「A は B である」という形で提示されると安心する傾向があり、それで分かった気になりやすいからです。

そこで、少し勉強熱心な人はどうでしょうか。
そういう人は、「科学」とは「一定の目的と方法の下に行われる、様々な事象の研究活動であり、その研究活動によって得られる知」と説明的な定義を知るまで調べます。
これは先程の「科学とは science である」で止まっている人より遥かに進歩しています。

でも、それでは、何故「科学」と言うのかが、実の所ピンと来ません、「科学」の定義は説明できるけど、単語から「科学」の持つ意味合いを感じ取ることができません。そうしたことを知るには、語源や語の成り立ち方を知る必要があります。
「科」の意味が理解できていれば、「科学」が「体系化された知」すなわち「学問」が集められて「分類され配列された部門」なんだと分かります。このようにして、また一段深く「科学」について理解できるのです。

こうしたことから、言葉が持つ意味について、言葉の成り立ちについて、言葉が持つ印象について、深く考える癖をつけることを強くお勧めます。
もしカタカナ英語をそのまま使うのであっても、そのカタカナ英語が持つ定義だけではなく、それがどのように成り立っているのかといったことまで理解して使うように心掛けるべきかと思います。
言葉の成り立ちや受ける印象を知らずに、言葉を使うことは、かなり怖いことだということを知っておいてください。人間は言葉を使って思考するために、言葉が与えられると分かった気がして、その言葉を安易に使ってしまいます。
成り立ちや印象が分からなくとも、言葉の意味・定義をしっかりと理解して使っているのならば、まだマシではあります。でも、言葉の意味・定義しか覚えていないと、腑に落ちず言葉を使っていることになります。そうすると、言葉に振り回されることがしばしばあります。フワッとした言葉に引っ張られて、思考が滅茶苦茶になり得ます。また、そのような中で作られた主張は、論理構成や結論がとんでもない方向に行き着いたりしてしまっているものです。
自分が言葉を使っているはずなのに、言葉が自分を誘導しているという主客逆転現象です。

もちろん、私は日本語を大切にしたいと思っていますが、別に強要はしません。日本なんかに閉じこもっておけるかと思うなら、英語を徹底的に習得すればいいでしょう。いや、日本語にしろ英語にしろ、あるいは他の言語にしろ、「言葉」について深く考えられるようになってくれれば、言語は何だっていいです。何を使うかは、他に強制されることなく、自分で決めればいいでしょう。それが「自由」ですから。

ただ、「自由」liberalism を強調し過ぎるのも均衡がとれません。「保守」conservatism の考え方も身に付けておきましょう。
何でもかんでも自分で決めることができるという自由主義的な人間賛美・個人賛美は、行き過ぎると危険です。人間なんてのは社会に制約されており、それを抑圧と捉えるかは別としても、そんな当たり前の現実を無視できません。そういった現実があることを無視したり、そうした制約を抑圧だと言って、徹底的に排除しようとすると、思わぬ軋轢が生じ、社会全体が混乱することは歴史的に何度もありました。要素還元主義的な部分の理解では、全体論的な警告を無視することになるから当たり前の帰結です。

言葉だって同じです。生まれて気付かぬ内に刷り込まれていた「母語」が何だかんだ言って、馴染み深く、使い慣れているものです。
そして、「母語」の英語は mother tongue です。直訳すると、「母親の舌」です。なるほど、昔なら、小さい頃はほぼ確実に母親の母乳で育てられ、世話をされるので、最初に覚える言葉は、「母親の言葉」なのだと分かります。

しかし、今はミルクが大量生産され、母乳で赤子を育てなくても大丈夫になり、必ずしも子育ては母親の役割ではなくなったので、母親から教えられた言葉という「母語」の印象は薄れてきました。今は、英語でも「母語」を native language[tongue]と言うことが増えてきました。

それでも、「母語」を他から強制されたものだとして、言語ですら自分で選べるというのも変なものです。自分で選んだものでなければ、自由ではないと徹底するのもいいですが、人間の傲慢さだとも言えます。

そもそも、考えるとき「母語」ありきです。
私達の基礎的な思考を形作っているのは「母語」です。深い思考を行うとき、自分で選んで決めた言語ではなく、「母語」が勝手に出て来るものです。もし「母語」の能力が低いと、深い思考ができなくなってしまいます。
だからこそ、国語教育が重要なのです。もし「母語」以外の言語で深い思考を行おうとすると、その第二言語を「母語」なみに習得することが求められます。これは想像するだけで、かなり大変なことが分かります。「母語」と言ってもいいほどに、日頃から使って訓練する必要があります。
もし「母語」ではなく、自分で言語を選ぶなら、そういったことを自覚しておくべきでしょう。

皆さんも、「母語」である日本語について、一考してみてください。

なお、現在日本語で使っている科学用語等は、明治時代に翻訳されたものが多く、研究が深まっておらず、また、その情報量が少ないという時代性ゆえに、原語の意味を上手く拾えておらず不完全であったり誤訳的であったりするものもあります。そうしたことには注意しておく必要があります。

ちょっと脇道に逸れてしまいました。
日本に導入された科学 science が理解できたでしょうか。

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4 学問・専門・教養と大学

学問と科学の専門分化が理解できました。この専門の分類方法は英米系では基本的に似た物になっています。日本の大学の学部の置かれ方も基本的には、この専門の分類方法に則って設置されています。

もちろん、分ける人によって、専門分野の分け方に微妙に違いがあります。学問が元は1つの哲学から派生したものなので、1つの専門分野が綺麗に自然だけ、社会だけ、人間だけ分けられるわけがありません。
社会科学的であり人文科学であったりする政治学のような専門や、自然科学的・応用科学的であり人文科学的である医学のような専門もあります。
各科学の分け方は、その科学が持っている特徴が強く現れているだけで、それ以外の要素がない、ということを示しているわけではないので、勘違いしないでください。どの専門も思わぬところで、別の分野の科学の知識と出会うことがあることに注意しておいてください。
だからこそ、学際的 interdisciplinary な研究が重要であり、総合家 genralist であることが大切だったのです。

1.高校での教科と学問の関係

学問の専門と学部の関係を見る前に、まず大学入学前の段階である高校での分かれ方を見てみましょう。
実際に高校の文科系と理科系の分類は、この学問と専門に適した分け方なのでしょうか。

文科系の教科と言えば、国語、英語、社会です。国語は、現代文と古文・漢文である古典に分けられます。社会は地理歴史と公民に分けられます。さらに、地理歴史は地理・世界史・日本史、公民は倫理・政治経済に分けられます。現代社会は、倫理・政治経済を圧縮したような内容なので、ここでは省いています。
理科系の教科は、数学、理科です。理科は、物理、化学、生物、地学に分けられます。

文科系・理科系の教科と、学問の専門を比較すると、
文科系は、主に人文科学と社会科学をその範囲としています。
理科系は、主に形式科学と自然科学をその範囲としています。応用科学をそのままズバリ学ぶことはありませんが、理科の一環で、自然科学の知がどのように技術に応用されているかは一応学びます。



文理の分け方は、14世紀や17世紀的な分け方と言えます。
哲学と自然哲学・博物学(自然史学)として分けている。つまり、人間か自然かで分けている。こう言えるわけです。



そう考えれば、文科系・理科系の分け方は、やや古い形ではあり現代的な学問の専門分化に適しているとは言えなさそうですが、そんなに悪いものではなさそうです。
専門教育を受ける前の入り口、基礎的な事項が身に付いているかを確認する入試段階では、これくらいザックリ分けてしまうのもありでしょう。

ただし、文科系の人は、数学を含む形式科学がその範囲になっていないくとも、無視しないでください。学問を人間か自然かで分けたときに、数学は、人間を考察する哲学に分類されていたという事実がありました。つまり、文科系だから数学ができなくてもいいということには決してなりません。
高校数学程度は、必要な基礎的な論理力であるということを意識しておいてください。
逆に、理科系の人は、人文科学の知識なしには、人間存在、あるいは人間の精神性についての見識が低くなることに注意してください。

要は、文科系・理科系の分け方は、入試科目を課す上で必要な分け方でしかないということです。
高校程度の文科系・理科系の教科の知識は、大学で勉強するなら知っていて当たり前、使えて当たり前。そこに文科系・理科系の区別はありません。
すべての教科は最低限身に付けるべきものであり、文科系と理科系に分かれているのは、入試を実施するために存在する現実的な問題があるためです。
決して、その逆ではありません。入試が課している教科だけが必要なものではありません。
文科系だから数学はできなくてもいい、理科系だから国語はできなくてもいい、ということは有り得ません。大学は専門家だけでなく総合家にもなる場所です。自分の専門分野以外はしたくないという人は、専門学校への進学をお薦めします。

2.大学組織と学問・専門

さて、学問が、形式科学・自然科学・応用科学・人文科学・社会科学に専門分化していますが、専門家 specialist は、各科学の中の専門分野 discipline を修めることになります。大学の学部で専門教育を受けることになります。
それでは、専門と大学の学部の関係を少し見てみましょう。

自然科学 natural sciences の物理学、天文学、化学、地球科学、生物学は、基礎研究としてくくれます。
基礎研究は、英語で basic research や fundamental research、pure research と言います。また、基礎科学 fundamental science とも言われたりすることがあります。
これは、技術に関する応用科学 applied sciences に関する研究、すなわち、応用研究 applied research に対して、それを成立させるための基礎的な研究・科学を意味します。
したがって、この基礎科学である自然科学の知が深まることによって、より詳細な事実が分かるだけではなく、様々な応用科学に転用できるようになります。



このように、自然科学の基礎的な分野を研究するのが、理学部になります。
さらに、その中で、専門に応じて科に分かれています。
例えば、自然科学の物理学を専門にするのが、理学部物理学科となります。
またさらに、物理学の中でも、力学や原子力等、どんどん細かく分かれて行きます。

そして、物理学、天文学、化学、地球科学をまとめて、物理科学 physical sciences と呼びます。
物理科学は、研究対象を基礎的な物に還元して、そこから積み重ねて行く学問になります。最終的には素粒子に還元されて、物理学の運動法則に支配されています。つまり、要素還元主義に基づく分析が効果的です。

それ以外の生物学は、生命科学 life science になります。
生命科学は生命現象について研究する学問です。生命現象も生物を研究するため、物理学の法則の適用を受けますが、それだけでは理解できないことが多いです。要素還元主義に基づく分析では理解できないほどに、複雑です。全体を全体で理解しないといけません。
確かに、細胞1つ1つの構造は、要素還元主義的な分析で分かります。その細胞が集まり、どのような機能をしているのかも、まだ要素還元主義で分かる部分があります。しかし、一部が欠けると通常機能不全に陥る能力があると予測されるのに、どうしてか分からないが、身体全体がそれを補うようにして、その機能不全を補完していたりします。現代の科学では、まだ説明できないものなので、物理科学の範囲では扱えなかったりします。



なお、形式科学の数学等も、理学部に含まれていることが多いです。なぜならば、数学は自然科学を数式で表すためにも密接不可分で、世の中の根本のことわりを研究していると言えるからです。
したがって、形式科学 formal sciences は、理学部数学科などのように分類されることが多いです。



この基礎研究の成果を利用して、技術に関する研究を行うが、応用科学 applied sciences でした。
基礎研究の成果を応用の仕方を研究するので、応用研究 applied research と言われたりすることもあります。
応用科学は、工学・建築学、医学・薬学・農学・獣医学、計算学等があります。

工学は工学部として、様々な分野に分かれています。英語では engineering と言います。
工学は分野が多様過ぎて、おそらく工学部の学生も、細かな違いをすべて把握できていないかと思われます。私もすべてを知っているわけではありません。
そんな工学ですから、機械について研究したり、材料を研究したりと色々です。基礎科学である自然科学の中で物理学や化学が大活躍しますが、生命科学や地球科学の知識が必要になることもあります。

建築学は、日本では工学部の中の建築学科に分類されることが多いですかね。英語では、architecture です。
建築物の構造を考えるために物理学、材料も大切なので化学も大切です。



なお、工学にしろ建築学にしろ、人間が使うのに便利なものを開発しようとしているという点では、人間の考え方や精神について知っておく必要があります。人間が何を美しく感じるのか、便利に思うのかといったことは、人文科学の知になります。

医学は医学部で、薬学は薬学部で研究されます。どちらも主に人間の人体に対する医療について研究します。
医学は、主に人体をどう治すかということについて研究します。医学は英語では、medicine です。
これは医学の薬、医薬について研究することも含んだ語になっています。生命科学と化学が大切になります。そして、医療は、病に苦しむ人間に対する行為であるから、人間とは何なのか、その精神として何が大切なのかということも真摯に考えないといけません。つまり、人文科学への造詣が深くないといけません。
薬学は、医学と近いですが、主に錠剤などの薬を研究します。英語では、pharmacy です。こちらも生命科学と化学が大切になります。

農学は農学部で、獣学は獣医学部で研究されます。これは博物学の動植物を研究していたことから派生しているのが分かります。
農学は、主に農業・林業・水産業・畜産業などについて研究します。ですから、農学もかなり広い分野になります。英語では、agriculture です。
生命科学と化学はもちろん、地球科学の知識も必要になります。砂漠では米はつくれません。土壌の水はけが良すぎても米はつくれません。地球の環境を知っておかないといけません。
獣医学は、主に動物を治療することを研究します。英語では、veterinary medicine です。
生命科学と化学が主になりますが、動物の生態を考える上では、地球科学の知識も必要になります。



以上が、自然科学を応用する研究が中心となります。残る計算学は形式科学を応用することが主になります。

計算学というのは、幅広い計算に関わる研究です。英語では、computing です。
皆さんには、コンピュータに関係する研究が主だと言えばイメージしやすいかもしれません。
計算機学(いわゆるコンピュータサイエンス)やプログラミングやアルゴリズム等幅広い情報技術を研究します。これは数学の能力が大変必要になります。日本では工学部の中に、情報工学科として設けられていたりすることが多いです。



細かく見れば他にも色々ありますし、分類に違いがあったりします。しかも、時代は学際的 interdisciplinary な時代ですから、様々な専門分野が垣根を越えて結びつこうとしていることを覚えておいてください。それでも、大枠としてはこのような理解で大丈夫です。
これら応用科学は、私達の生活を便利にしてくれて、物質的に豊かにもしてくれます。まさに、文明に関わる技術です。

以上、自然科学と応用科学に対する日本の大学の学部での位置づけです。



次に、人文科学と社会科学について見ましょう。これは、人文社会科学として一纏めにされることも多いです。

まずは社会科学 social sciences についてです。
社会科学は人間の行動と人間関係を研究対象としています。

法学部は、法学と政治学が主になります。
法学 law は、法律を研究します。法律は人間関係を規律しています。
また、政治学 politics は、正しい政治とは何かや自由とは何かといった規範に関する研究を行う政治哲学 political philosophy の他に、政治を動かす行動主体がどのような行動をとっているかといった政治行動を研究する政治科学 political science があります。
政治哲学は、法学と深い関係にあります。正しい政治、公平な状態というこを考えないと、法律から中立的で正義に適った解釈を導けないからです。こういう意味では、人文科学の思想や哲学と非常に近い関係があります。
しかし、政治科学は、統計学を使うなどして、現実の政治状態を客観的に捉えて説明しようとする傾向があります。

経済学部は、経済学と経営学が主になります。
経済学 economics は、人間の経済活動について研究します。
経済学は、経済全体を捉えるマクロ経済学 macroeconomics だけではなく、家計や企業活動等の細かいものを対象にするミクロ経済学 microeconomics があります。ミクロ経済学では、経営学と近い研究になったりする部分もあります。

経営学 management は、企業を中心とする組織の運営について研究します。
商業に関係する組織の運営や経営を考える場合、business administration と言います。皆さんも、MBA という専門修士の資格を持っていれば、給料の良い企業で働けるとか聞いたことがあるのではないでしょうか。MBA は Master of Business Administration の略称です。

ちなみに、法学部のところでは言いませんでしたが、経営学 management の考え方は、政治学の官僚組織や行政組織について考えることと結びつくと、行政学 public administration になります。これは法学部の政治学科の方に分類されることになります。

ちょっと脇道に逸れます。management と administration の違いについてです。
administration は、英語でも必須の単語として覚えさせられたでしょう。
aministration は、「商売や組織などを運営する過程や活動」を意味するので、日本語では「行政」「政府」という訳や、「管理」「運営」といった訳になります。
management は、「物や人を分配・制御する過程」を意味するので、日本語では「管理」「経営」、あるいは、「取扱い」「操縦」といった訳になります。
administration も management も「管理」という意味では似ていますが、administration の方がより高位の決定管理を行い、management の方がそれよりは下の真ん中あたりの決定管理を行うという違いがあります。
ですから、政府や行政組織についての「管理」を言う場合は、administartion が使われることが多いです。企業の中でも社長レベルの会社全体を左右する管理決定等は、administartion が使われることがあります。これに対して、商売や企業の中でも、中間に位置する部長とかがリーダーになって「管理」をする場合に management が使われていることが多いです。



日本の大学の形成過程を考えると、東大が官僚養成機関であったこともあって、法学は法学部で、経済学は経済学部で、研究・教育することに力が入れられていました。そして、それ以外の専門分野は、大雑把に文学部に放り込まれてしまったという過去があります。
ですから、社会科学なのに、文学部に入れられて、人文科学のように取り違えられがちになってしまっています。

社会学 sociology は、社会の現象を研究する学問です。
心理学 psychology は、人間の心と行動の関係を研究します。
どちらも人間存在についての深い理解が必要になりますが、あくまで社会科学的であり、定量的研究として統計分析による因果関係の探究が主になります。

人類学・考古学は社会科学に分類しましたが、自然科学でもあり、人文科学でもある面が非常に強いです。
人類の起源を考える上で、化石や骨などを材料とするのですが、これは生物化学や地質学の知識が必要です。また、文字資料が残ってる時代に入ってくると、歴史的な研究とのつき合せも必要になります。結構総合的な分野になります。
ですから、人文科学に入れられてたりすることもあれば、自然科学に入れられていることもあります。



以上のように、社会科学は、人間の行動と人間の関係性について、統計学や資料を用いながら実証的な研究をします。

次に、人文科学 humanities についてです。人文科学は人間の存在と精神性・文化を研究対象としています。
人文科学は文学部に属すことがほとんどです。文学部の中で各専門に分かれています。文学部哲学科のような具合です。

哲学 philosophy は、かつてすべての学問でしたが、今はもう専門ごとに分化して独立されてしまっています。これを「学問の残り滓」と揶揄する人もいます。
現在では、哲学は、概念の生成が主になっています。
つまり、新しい考え、あるいは、新しい考え方を提起することで、物事の捉え方を変えたりします。その新たな概念を利用することで、他分野の科学への影響を持っています。

倫理学 ethics は、哲学に近いです。道徳や善、人間の生き方について考察します。
さらに思想 thought も、哲学に近いです。人間の考えることや考え方をまとめて整理します。自由主義思想や共産主義思想、東洋思想や西洋思想などです。

宗教学は、宗教について考察します。
宗教学 the science of religion / the studies of religion は、神学 theology と異なります。
宗教学では、神が存在しているか否かは問題にしません。と言うか、神が存在していると本当に信じて研究している人は少ないのではないでしょうか。宗教が人間の生活や文化にどのような影響を与えているか等を研究します。
神学 theology では神が存在しているものとして、その宗教の教義や真理を追究しています。

哲学・倫理学・思想・宗教学は、どれも人間の考えることについての考察したものです。これらは、かなり近い関係にあるので、キッチリ棲み分けができません。かなり広範な学問になります。
また、哲学や思想は、考え方等を考察するので、他の専門分野にも踏み込んできます。例えば、政治哲学等がそうです。



言語学は、言語の本質や構造を研究します。英語では、linguistic と言います。
人間の言葉について研究するので人文科学に分類していますが、社会科学に分類されることもあります。哲学や思想と異なり、研究方法もある程度整理されており、さらに人間の言葉は文章に残っており、文章として正しいか否か等も検証がしやすいという面があるからでしょう。もちろん、日本語や英語だけではなく、世界中の言語が対象になります。

文学は、小説を始めとして文章について研究します。英語では、literature です。
これは洋の東西を問わず、文章全般を扱います。そこから文化論に発展して行ったりもします。
また、文学を過去に遡って研究する場合は、それは古典 classics になります。



歴史学は、人間の歴史について研究します。英語では、history です。
歴史は主に史料から読み解くものなので、人類学や考古学と異なります。人間が経験した事件や事象を解き明かすことになります。実証的な研究が中心になり、史料が第一なので、思想的な枠組みで正義の断罪をしたりすることは慎まれます。ただし、実証と言っても、歴史をまったく同じように再現はできないので、仮説が示す因果関係が確かにあるのかは分からず、確実性は自然科学より格段に落ちます。

芸術は、美術・彫刻・音楽などを研究します。
実際に制作をするのは、芸術家の仕事なので、あくまで対象として研究するのが主です。これは人間が創り出す美の研究でもあります。



以上のような人文科学は、基本的に解釈が中心になります。
一応、現に存在しているものや資料(史料)を前提にしますが、それがなかった場合どうなるのかということを実験して検証することはできません。したがって、解釈によって導かれた合理的説明たる仮説が、本当に現実と合致しいているかは不明のままです。
でも、人間の存在と精神性・文化について徹底的に考えるために必要な学問群です。

なお、今、法学部・経済学部・文学部だけ学部があり、その下に専門の科が置かれているような説明をしましたが、大学によっては、文学部に何でもかんでも放り込むことなく、社会学部などと独立して学部が置かれている場合もあります。

また、社会科学も人文科学(人文学)と分けて説明しましたが、社会科学を学ぶのにも人文科学(人文学)の素養は必要になってきます。
その逆に、人文科学(人文学)を学ぶのに社会科学の素養が必要にもなります。

これは、学問の専門分化の過程を考えれば、納得できるかと思います。
最初に、研究対象が自然か人間かという区別からまず自然科学が分離していきましたね。
そして、人間を研究する中から社会科学が分離して行きました。
ですから、社会科学も大きく見れば、人間に関する研究です。社会は人間がつくるものなのですから、人間の存在や精神を知っておかないといけません。
逆に、人間は社会から孤立して存在することもなく社会的動物ですから、人文科学(人文学)を研究する場合も社会について知っておかないとけません。

専門分野の分類は、研究対象が何なのかを知る指針として非常に便利です。しかし、専門の分類に縛られ過ぎて考えないように気を付けてください。複雑で多様な対象を完璧に綺麗に無矛盾に分けることは、現実問題として不可能だからです。専門の分類は、あくまで考えるための最初の切っ掛けであり、指針だということを覚えておいてください。

以上のように、現在の大学教育では、このように学部に分けられて専門分野disicplinesを学び、専門家specialistとなります。




3.教養と総合家のための教育

それでは、総合家 generalist になるための教育、つまり、教養 liberal arts 教育はどうなっているのでしょうか。

教養の授業は、専門以外の人が履修しても理解できるような形で行われることがほとんどです。専門の大枠や基礎的な部分を学ぶような講義になっていることが多いです。自然科学・形式科学・応用科学・社会科学・人文科学のあらゆる分野におよびます。
こうした教養 liberal arts 教育によって、総合家 generalist の面を伸ばそうとしています。

そして、教養 liberal arts 教育に力を入れている大学もあれば、申し訳程度にしかしない大学もあります。

教養教育と言えば東京大学が有名です。東京大学では、1・2年生を皆教養学部に所属させて教育する場合もありますが、こうした制度は少数派です。
東京大学は文科系は文科I類・II類・III類に、理科系は理科I類・II類・III類に分けられていますが、基本的に専門教育をしません。最初に教養教育をして、そこで自分の適性や興味を吟味して、専門に進むようになっています。
まぁ、この教養教育が上手く機能しているかは微妙な所がありますが、希望の学部に進学できるかは、教養科目の成績で決まるので、自分の興味のない分野も嫌でもある程度は勉強しないといけないようにはなっています。

一方で、ほとんどの大学は、各専門の学部に最初から属して、教養科目として、履修することになっています。専門科目を履修する傍らで、教養科目を一定単位履修するようにしています。多くの人は、自分の専門以外の教養科目は如何に楽をするかが主眼になっているようですが。

では、教養教育を考えるために、また歴史的な過程を少し振り返ってみましょう。
そもそもリベラル・アーツとは、古代ローマの教育制度に由来して、中世のヨーロッパの大学の教育制度が元になっています。
まず、教養 liberal arts は、自由七科のことを意味しました。自由七科とは、具体的には、文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何・天文学・音楽の4科です。

今風の学問の専門分野に合わせて言うと、
文法学・修辞学・論理学は言語学と文学になるでしょう。
算術・幾何・天文学・音楽は数学になります。論理学の一部は、これに含みます。
また、天文学は、現代の地理学のような分野も含んでいたと言われています。ここでは、天文学としておきます。



要は、形式科学の数学と論理学、人文科学の言語学や文学、自然科学の天文学の分野が教養 liberal arts だったわけです。

ここで復習ですが、liberal arts は2つの語 liberal と arts で構成されていました。
liberal が「自由の」という意味です。
arts はすぐに「芸術」や「美術」という日本語訳が思い浮かびますが、「技術」とか「技芸」という意味です。
「技術」と言う言葉は、technology で使ってしまったので、区別するために「技芸」という日本語で訳すことにします。

したがって、liberal arts は、「自由の技芸」という意味になります。
「自由」とは、「自由人」つまり「奴隷ではない人」を意味します。かつて、liberal arts は、「自由人になるための技芸」だということを意味しました。

かつては、自分の頭で考えることができ、自分のことを自分で決定できる「自由人」になってから、専門教育を受けるべきだと考えられていたのでした。
ですから、近代以前は、最初に教養 liberal arts 教育を受け、その後に専門教育を受けました。
なお、中世の専門 disciplines に関する教育は、まだ学問が専門分化していません。専門とは、より高等の学問と考えられた神学 theology であり、技術に関係する医学 medicine であり、法学 law でした。

このように、専門 disciplines を修める前提となり、学問を行える基礎的な能力が教養 liberal arts を意味しました。

でも、19世紀後半の学問の専門分化と科学の再編がなされて、さらに、20世紀の後半くらいから、教養教育の時間を削って早くからの専門教育が行われるようになります。
これは、各専門分野が深くなっていき、学ぶのに時間がかかるようになったことだけが理由ではありません。
大学生が、「教養 liberal arts はお金儲けにも繋がらないし時間の無駄だ」と考えるようになって来たという背景もあるらしいです。
大学進学者数が激増して、大衆化した世の中では、もうエリート意識はなく、「自由人って何?」といった感じになったようです。
教養 liberal arts は別にいいから、手に職を付けて金を稼げる実学を教えてくれという要請です。

これは、日本のみに見られる現象ではありません。最近、アメリカのリベラル・アーツ教育が良いと言われますが、こうした傾向はアメリカでも嘆かれていました。
それでも、アメリカでは一定程度のリベラル・アーツ教育を重視して守ろうとする動きが日本よりはるかに強かったので、日本よりはリベラル・アーツの重要性への認識が維持されていました。

こうして、教養 liberal arts 教育は、どんどん軽視されるようになっていきました。
そして、教養 liberal arts が、ほとんど崩壊してしまって専門のことしか分からない状態になって、皆これはマズイと思ったのかは知りませんが、総合家 generalist が改めて注目されるようになりました。教養 liberal arts 教育の再注目です。

そうは言っても、中世の自由七科のような教養 liberal arts は、現代ではあまりにも時代錯誤としか言いようがありません。
学問は中世に比べて大発展しており、自由七科だけでは不十分なのが明白だからです。
現代風に教養 liberal arts を解釈すれば、
形式科学の数学と論理学と人文科学の哲学・思想・文学・言語学、
を中心とするべきでしょう。
これらを軸として、自然科学と応用科学と社会科学と人文科学の全分野の基礎を理解しておくことが必要です。
もちろん、全分野なんてのは無理ですから取捨選択することになりますが、気持ちとしては、そういうとこです。

そして、これって要は、高校段階の全教科の勉強をしっかりと修めていれば、そこそこ良い線までいけることになります。
勘違いして欲しくないのは、入試科目に必要な科目のみをしっかりとではなく、高校の教科全般をしっかりと修めるという意味です。皆さんも教養人であり総合家になろうと思うのなら、高校程度の知識をまず一通り身に付けて操れるようになることを目指してみてはいかがでしょうか。

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5 まとめ

以上で、学問の専門分化の過程、専門の分類、教養をどう捉えるのか、ということを学びました。
考えること・哲学から始まった学問が、神学の影響を受けながら、自然哲学・博物学(自然史学)に分かれて行きました。そして19世紀後半に、
自然を研究する自然科学、
社会を研究する社会科学、
人間を研究する人文科学(人文学)、
数と論理を研究する形式科学、
技術を研究する応用科学、
大きく5つの分野に専門分化していきました。

そして、専門 disciplines に特化した人が、専門家 specialist です。
その専門 disciplines を操れる基礎能力が、教養 liberal arts です。
教養 liberal arts は、様々な専門に分かれてしまった学問を幅広く考えることを通じて培われます。
この教養 liberal arts が、総合家 generalist となるために欠かせない素養となります。


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 参考文献
◎野矢茂樹 『論理学』 東京大学出版会
○野矢茂樹 『新版 論理トレーニング』 産業図書
○照屋 華子、岡田 恵子 『ロジカル・シンキング』 東洋経済新報社
・照屋 華子 『ロジカル・ライティング』 東洋経済新報社
・アンドリュー・J・サター著/中村起子訳 『図解主義!』 インデックス・コミュニケーション
講義で適宜使った専門知識に関する文献
・吉川洋 『マクロ経済学(現代経済学入門)』 岩波書店
・伊藤元重氏 『マクロ経済学』 日本評論社
・マンキュー 『マンキュー入門経済学』『マンキュー経済学Iミクロ編』『マンキュー経済学IIマクロ編』東洋経済新報社
・スティグリッツ 『スティグリッツ入門経済学』『スティグリッツミクロ経済学』『スティグリッツマクロ経済学』東洋経済新報社
・キング(Gary King)、コヘイン(Robert O. Keohane)、ヴァーバ(Sidney Verba) 『社会科学のリサーチ・デザイン』 勁草書房
・江藤裕之 「healthの語源とその同族語との意味的連鎖−意味的連鎖という視点からの語源研究の有効性−」『長野県看護大学紀要』2002, no4, p.95-99
・Richard P. Feynman, The Feynman Lectures on Physics, Addison–Wesley
日本語:ファインマン『ファインマン物理学〈1〉力学』『ファインマン物理学〈2〉光・熱・波動』『ファインマン物理学〈3〉電磁気学』『ファインマン物理学〈4〉電磁波と物性』『ファインマン物理学〈5〉量子力学』 岩波書店
◎Charles Eames Jr 映画の書籍化powers of ten
・文部科学省「平成17年度学校基本調査 学部系統分類表」 web
・厚生労働省 健康日本21(総論) 第6章 人生の各段階の課題 web
・東京大学 web
・ポパー 『果てしなき探求〈上〉―知的自伝』『果てしなき探求〈下〉―知的自伝』 岩波現代選書
・廣松渉 編 『岩波哲学・思想事典』 岩波書店
・思想の科学研究会 編 『哲学・論理用語辞典』 弘文堂


総論 教養と学問の前に

はじめに(テキストダウンロード)
序章 学問と議論のために

 第 I 部 論理的思考
第1章 論理的であるとは
第2章 推論方法の基礎
第3章 三段論法
第4章 演繹法
第5章 帰納法
第6章 仮説推論
第7章 類比推論
第8章 観念連合
第9章 弁証法
第10章 論理的思考のまとめ
第11章 論理と誤謬
第11章(補講) 論理と誤謬

 第 II 部 論理的な問題解決 
第12章 目的と手段
第13章 演繹法と帰納法の絡み
第14章 問題と解決
第15章 論理ツリー ― what ツリー―
第16章 論理ツリー ― why ツリー―
第17章 論理ツリー ― how ツリー―
第18章 設定型の問題と創造型の問題
第19章 因果関係図
第20章 論理ピラミッドの基本
第21章 論理ピラミッド ―現象型の問題―
第22章 論理ピラミッドの応用
第23章 論理的な問題解決のまとめ

 第 III 部 教養と学問・科学
第24章 学問と科学の定義と目的
第25章 科学の方法
第26章 定性的研究と定量的研究
第27章 実証主義と反証主義
第28章 還元主義・総合・全体論
第29章 学問と専門・教養
第30章 学問の専門分化
第31章 教養と学問

引用・参考文献
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