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序章 学問と議論のために
講義のはじめとして皆さんに考えてもらいたいことは、何かを勉強したり話し合いをしているときに、注意しているコトは何か、ということです。
特に何も考えていないという人もいるかもしれませんが、深い理解や洞察が求められたり、相手との妥協や相互理解が必要なときに、必ず壁にぶつかるはずです。
何となくで進めて行っていると、おそらく壁の前でただ立ち止まって思考停止することになるでしょう。
壁にぶつかりながらも、自分の力で、可能な限り、打開できるようになるために、日頃から訓練し準備しておく必要があります。
そこで、最初に学問と議論を行う上で前提となるコト、つまり論理的思考について考えていきましょう。
なお、ここでは、学問はいわゆる勉強とも言い換えたり、議論は今はやりのディスカッションまたはディベートとも言い換えられるかもしれませんが、もう少し大きく堅く捉えたものとして考えてます。
というのも、勉強といえば、多くの人は小学校以来の経験から、教科書や参考書を読み、問題集や過去問を繰り返し行うもので、覚えることに主眼が置かれがちに思ったからです。
ですから、ここでは敢えて勉強ではなく、学問という言葉を選びましました。
学問はいわゆる勉強という面もありますが、本質的には、未知のモノを観察して考えることだと私は考えています。
学びて問うことの繰り返しです。
ディベートやディスカッションではなく議論としたのにも理由があります。
ディスカッションについては、議論という日本語を用いればよく、わざわざ英語で言う必要もないだろう。こういう日本語への思いがあります。またディベートについては、どうしても勝ち負けがちらつくため、和を貴しとなす日本の文化には向いてないと感じたからです。
論を議すものという意味を前面に出したいから議論としています。
考えを話し合うことが第一にあります。
そして、何故に学問と議論を一纏めにしているのかと疑問に思う人もいるでしょうが、これは学問と議論が密接に関連し合っているからです。
学問をする場合に、どんな天才でも人一人の知力は限られており、いわんや平凡な人のものなど高が知れてます。
何か未知のモノについて考えるときには、色々な人の意見や考えに触れて、自分の思考を研ぎ澄ましていくことが必要になります。そのとき情報に触れるための媒体は、文章かもしれませんし、人との対話かもしれません。
いずれにしろ他者の考えを理解しなければなりません。同時に、自分の考えを他者に正しく理解してもらう必要も出てきます。
では、この「理解すること」と「理解されること」において、共に必要となるものはなんでしょうか。
それが「論理的であること」です。論理的であれば、他者を理解することができ、かつ自分を理解してもらうこともできるのです。
まず学問が「論理的であること」は、多くの人が認めることでしょう。論理的でないものは学問たりえないのです。論理的に考えを構成することで他人でも理解でき納得できるものにするのが学問だからです。
同様に、議論においても「論理的であること」が求められるのは、多くの人が賛成すると思います。皆が自分の気持ち「だけ」をひたすら述べているのでは、話が何も進まなくなってしまいます。
例えば、幼児が泣きながら「イヤ」とのみ叫んでいたら、周囲の者は困り果てます。何が嫌なのかも示さずにただ感情だけを述べられても理解できないからです。大人は、幼児が何が気に入らないのかを色々試しながら、あやしていくしかないです。大変ですね。幼児と同じことを、いい年した人、まぁ義務教育を終えた年以上の人がしてたら、誰も相手にしません。下手すると社会から隔離されるかもしれません。いつまでも甘えることはできないのです。日常を観察すると、悲しいことに、実はこれに似た事例は大人同士の会話にもよく見られるんですね。
とにかく、議論においても「論理的であること」が求められ、ちゃんと自分の気持ちや考えを相手が分かる形で説明しなければなりません。
次に、歴史的な観点から学問と議論の関係を見てみましょう。
そもそも現代における学問の在り方の雛形ができたのは、約2500年前の古代ギリシアの時代です。
当時は現代のような紙はなく、動物の皮や水草の茎からつくるパピルスというものに文章を書いていました。もちろん貴重な物なので、おいそれと書けません。だからというわけでもないのですが、書物に自分の考えを残すことと以上に、議論が重要な位置を占めていました。そもそも古代ギリシアの議論を行っていた人は、多くは今で言う哲学者ですが、紙に書かれた言葉は不完全だと見なしていました。
文字等ではなく自分が自ら発した言葉でこそ、自分の思想や考えを真に伝えることができると信じていたのです。
他者との対話を重ねることで、自分の考えを研磨していく。そして真理に近づいていく。このような過程が、昔から積み重ねられてきたことです。
つまり、書物を読むことが主だと感じられる現代の学問も、元を辿れば、他者との対話から出発していると言えます。
とすると、学問と議論が非常に似ているのも合点がいきます。歴史的に見ても、他者を理解し自分を理解してもらうために必要な「論理的であること」が、学問と議論の両方に共通しているのが分かります。
学問と議論共に「論理的であること」が重要であると理解できたでしょうか。
なお、この話の一部にはいわゆる論理学の知識も含まれていますが、完全に論理学の用語の使用方法等に準拠はしているとは限りません。
そもそも論理学のいう論理性や厳密性を現実世界で追求すると、日常レベルはもちろん論理学以外の学問分野も論理学の持つ厳密性に耐えられるものはほとんどなくなってしまいます。
現実世界は、論理学の持つ世界と異なり、ある程度「緩い」ものとなっています。幅を持ち柔軟性があるといってもよいかもしれません。
その「緩さ」ゆえに、解釈に幅が生まれ、「誰が、どこでも、いつやっても、同じ結果が得られる」といったことに必ずしもならないことが、しばしば起こってしまうということにもなりますが。
とりあえず、論理学の持つ本質的な論理的厳密性の力を借りつつも、都合の悪い部分には目をつむりながら、現実世界の事象を思考し対話を可能にし応用できるようになるのが目標です。
もしこの話を聴いて論理学に興味がわいた人がいれば、入門として『書物』から入ってみることをお薦めします。
最初に論理学に則りながら、高校の数学Aで学習する内容と被ってますが、命題と真偽判定等を扱います。簡単な事柄を例にして、論理的に正しいということがどういうことかを学びます。
次に様々な推論方法を概観します。複雑な事象を分析できるような方法を検討していきます。
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