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第8章 観念連合

論理的思考について考えて来ました。そして、狭義の帰納法仮説推論類比推論と学んでいく内に、論理的というよりも、考え始める最初の段階では、思い付き的な場合が多いように感じてきます。
この思いつき的なモノを様々な方法で整えて論理的にしていきました。
そこで、この広義の帰納法に分類される考え方について、観念連合という観点から少しまとめてみます。

論理的思考の裏側で人間の意識や思考がどのように働いているかが主な話なので、推論ができるという論理力よりも、抽象的な話を理解するということが求められます。今ここで理解できなくとも、色々な文章に触れていくことで理解できるようになるため、そんなこともあるのか程度でいいので気にしないでください。

目次
1 観念連合とは
2 観念・概念・範疇
3 感覚・知覚・経験
4 表象・形象・心象
5 まとめ

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1 観念連合とは

帰納法、仮説推論、類似推論を理解した段階で、補足として、観念連合について解説したいと思います。

観念連合という考え方は、18世紀のイギリス経験論の中で発展しました。つまり、帰納法と同様に、イギリス哲学の系譜にあります。
英語では、association of ideas と言います。観念連合に関する人物としては、ジョン・ロックから始まり、ハートリー、ヒューム、ジョン・スチュアート・ミル等がそれを継承発展させたというのが有名です。現代では、哲学というよりも心理学の分野で連合主義といって扱われることが多いです。その理由は、哲学で始まった考え方が発展して大きく複雑になるにつれて心理学として独立していったからです。

ここでは心理学を勉強したいわけではないので、論理的思考に使う帰納法をより理解するという観点から、観念連合について整理していきたいと思います。したがって、哲学的・心理学的な意味で、観念連合を正確に理解したい場合は、それぞれ別に勉強してください。

観念連合とは、ある観念とある観念が結びつくことです。つまり、ある事物を観察をしたときに、別の事物と結びつけて考えることです。この観念と観念が結びつく要因には、ある事物を観察したときに受ける強い印象や、ある事物と別の事物の親近性や、個人の習慣等があります。

話が抽象的なモノになるので難しいですが、とりあえず今の説明で分からなければ、観念連合を「連想する」ことと一先ず考えてくれればいいです。

第6章 仮説推論で述べた(6.1.2)を思い出して欲しいのですが、

(6.1.2)次の推論が成り立つような前提を答えよ
<前提1> ある町で皆に深く礼をされている人を見た (観察事実=小前提)
<前提2> その人が町長ならば、皆に深く礼をされる (大前提)
[結論] よって、その人は町長に違いない (仮説)
演繹法の仮言三段論法(後件肯定)
 → 正しい推論とは言えない
 → 仮説推論では許容される推論

「ある町で皆に深く礼をされている人を見た」という観察事実から、仮説である「その人は町長に違いない」を推論する仮説形成段階では、論理的思考というよりも、思いつきに近いことは述べました。別に「ある町で皆に深く礼をされている人を見た」ことと「その人は町長に違いない」を結びつける論理的必然はありません。

しかし、「その人が町長ならば、皆に深く礼をされる」という経験や知識が、心や記憶に強烈に残っていたりすると、観察事実から仮説を形成するのはそんなに突飛なことに感じなくなります。また、「町長」は「偉い人」、「偉い人」は「皆に深く礼をされる」といった事物や物事の親近性を見つけてしまうと、つい結びつけて考えてしまうものです。または、生まれてこの方ずっと「町長が皆に深く礼をされている」という事実を観察し続けて、そういうもんだと習慣化していると、仮説形成が自然となされるようになったりもします。

このように、最初の発想段階で、必ずしも論理的思考とは言えない推論を行うのは、私達の思考様式として、観念連合があり、ある観念とある観念を結びつけて考える習性があるからです。それは、時には新しい発見等をもたらすという利点がありますが、必ずしも正しくない、誤った結論を導き得るという欠点もあります。

人間であれば、この観念連合から逃れることは難しいです。また利点もあるので絶対に避けなければならないというわけでもありません。必ずしも正しくはないを結論を導き得るということを意識して、検証することが重要になります。

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2 観念・概念・範疇

観念連合について説明したついでに、今まで使ってきた言葉である観念や概念についても整理しておきます。

まず観念について説明します。
観念は、英語の idea を訳したものです。このことから、観念の基本的な意味が「考え」であることは理解できます。しかし、わざわざ「観念」と言うからには、単なる「考え」ではなく、何かしら特別な意味合いが含まれているのだろうと予想もできます。

そもそもの漢字の意味では、「観」が「物事を見て本質を捉える」であり、「念」の意味が「思い」、「気持ち」、「考え」ですので、「観念」の漢字からも意味が想像しやすいです。
したがって、「観念」と言うと、「抽象的な考え」や「対象についての意識・考え」といった意味になります。

例えば、そうですね、今持っている「鉛筆」を見てください。シャーペンしかない人は別にシャーペンでもいいです。今私は「鉛筆」を持っているので「鉛筆」で話を進めます。

「鉛筆」を見たときに、私達は、その「鉛筆」それ自体とは別に、頭の中あるいは心の中で、「鉛筆」を意識することになります。



この「鉛筆」という対象に対する意識が「観念」です。このとき現実世界にある鉛筆その物とは別に、頭の中に「鉛筆」の「観念」を持っていることになります。



このように、現実世界の対象を、意識の中に思い浮かべたモノが観念です。

意識の中の観念
     |
現実世界の対象


現実に「鉛筆」を見ているとき以外にも、「観念」は生じますし、実際に見たこともないモノに対しても「観念」を持つことすらあります。

「侍」と言われたときに、21世紀の現代に誰も本物を見たことはないです。しかし、「侍」を観念することはできます。宮本武蔵とか誰か特定の個人を想像した人は、「侍」を思い浮かべてください。和服を着ていて、髷を結っていて、刀と脇差の日本差しで、…と侍を頭に思い浮かべられると思います。これは、実際に今「侍」を見ていなくても、「侍」を「観念」していることになります。つまり、「侍」を頭の中に意識して思い浮かべるコトができると思います。

「侍と」言われると、写真や絵で見たことがあるので、想像はできるだとうと思うかもしれません。
では、「重さ」ならどうでしょうか。人なら体重何キロ、物なら質量・重量何グラムと想像でき、「重さ」というものがどんなものか分かると思います。しかし、「重さ」そのモノは想像するのは難しのではないでしょうか。でも、何となくですが、頭の中に「重さ」というものを思い浮かべることができるはずです。これは、意識される対象についての考えがあるためであり、つまり、観念があるからです。

このように「観念」は、抽象的な考えや対象についての意識・考えといった意味があります。それは、漠然としたものであるコトも少なくないです。また、現実の対象と必ずしも1対1で対応しているわけではありません。ですから、「君の意見は観念的である」と言われると、「君の考えは頭の中で意識されているもので、現実的なモノとの対応がない抽象的な考えや意見である」といった意味合いになります。


この観念と関連して、概念についても解説したいと思います。
今まで「概念」というと「考え」という意味程度で特段何も言いませんでした。単純に「考え」と言うだけだと、観念が英語で idea であったこから、「概念」との区別が難しくなるので、改めて説明しておきます。「概念」は、英語の concept の訳です。

漢字の「概」は「全体をならす」「大体」といった意味ですから、平均的にするという意味が伺えます。これに「考え」を意味する「念」が組み合わさるわけです。
概念」とは、事物の本質や特徴を捉えて、明確に言語化した考えです。

「鉛筆」を観念したとき、漠然と「鉛筆」を頭の中に思い浮かべていました。「字が書ける」、「黒色」、「木」、…などの様々な観念とともに「鉛筆」を観念していたと思います。



そこで「鉛筆」は、国語辞典を調べてみると、「筆記用具の一つで、木の軸に、黒鉛の粉末と粘土を混ぜ高熱で焼き固めた芯を入れたもの」と定義されています。この「鉛筆」の定義が、「鉛筆」の「概念」です。つまり、「鉛筆」の本質や特徴を捉えて、明確に言語化したものとなっているというコトです。



漠然と「鉛筆」を観念した場合と比較すると、「鉛筆」の「概念」は、より具体的で明確になっていると思います。
抽象と具体という軸で考えると、「観念」は抽象的で、「概念」は具体的であるとも言えます。



なぜ「観念」だけではなく、「概念」も重要になるのかと言うと、ヒトは言葉なしには思考ができないからです。試しに、言葉を一切使わずに何か考えてみてください。できないはずです。何かを感じても、その感じたことを言葉にしないと、何を感じたのかですらよく分かりません。

たとえ自分の中で何かを悟っても、観念的である限り、他人には理解不能なものになってしまいます。こうした言葉では語り尽くせないような悟りとかいった類のものは瞑想等の分野があるにはありますが、言葉で上手く説明できないので、理解や体験が非常に難しいです。ですから、論理的思考では、明確に言語化された考えである「概念」が重要となるわけです。

しかし、「概念」も、実際にはかなり抽象的なモノです。何故でしょうか。

「概念」は、事物の本質や特徴を捉えて、明確に言語化した考えでした。この「事物の本質や特徴を捉えて」というのが鍵です。「事物の本質や特徴を捉える」とは、どういうことかを考えてみてください。

本質とは事物の根本の性質ですが、これを捉えるには、抽象化する必要があることに気付いたでしょうか。
「鉛筆」の本質を捉えるために、様々個別の鉛筆を観察していきます。「鉛筆」には色々な長さがあります。H やB といった濃さも多様です。そうした多種多様な個別的・特殊的・具体的な「鉛筆」に共通する性質を抜き出して抽象化することで、一般的・普遍的・抽象的な「鉛筆」という「概念」を創り出します。

つまり、この「事物の本質を捉える」とは、抽象化することと同じだと分かります。
図4.1.抽象化と具体化


このように、「概念」は、「観念」と比較すると、言語化され明確になっており具体的なモノに思えるが、現実の対象たる事物に対しては抽象的であると言えます。



「対象」を観察すると、何かしら「観念」を抱きます。しかし、「観念」では抽象度が高いため、分かったような分からないようなモヤモヤとした気分になります。

そこで、「観念」に言葉を与える、つまり明確に言語化することで、抽象度を下げ、「概念」化します。「概念」になると、明確に言語化されているので考えもスッキリとします。

そして、「概念」があるから、「対象」を詳しく観察できます。明確に言語化された「概念」と照らし合わすことで、「対象」にどのような特徴があるのか分かるからです。

「概念」のもとに対象を観察していると、今持っている「概念」では捉えられない「観念」が生じることもあります。そのとき、その「観念」が何なのか考えて新しく「概念」化します。そして、「対象」をより詳しく理解できるようになります。このことから、対象・観念・概念は相互に影響を与え合っており、
対象 → 観念 →概念 → 対象 → 観念 →概念 → …
といった循環があることが分かります。これは具体的なモノと抽象的なモノの間を段階的にグルグル回っているとも見ることができます。




「概念」が事物の本質や特徴を捉えて、明確に言語化した考えであることが理解できれば、「概念」に応じて、色々なモノを分類していくのも自然なことと受け取れるはずです。
なぜなら、明確に言語化して「概念」にするというコトは、「観念」であるために「対象」が曖昧で境界が分からなかったモノに境界を設定して、輪郭を設けてやることだからです。境界線を引くのだから、対象と観念のここからここまでは概念 A で、ここからここまでは概念 B だとするコトになります。そうすると自然と様々な対象や観念が、概念の下に整理され分類されるコトになるのが分かります。

例えば、「鉛筆」という概念に基づいて、何か書けるものに対して、分類してみましょう。
「鉛筆」の概念に当てはまるモノは、もちろん「鉛筆」に分類されます。
そして、「鉛筆」の概念に当てはまらないものは「鉛筆ではないモノ」になります。
「鉛筆」に対して、肯定と否定を適用しているとも言えます。



「鉛筆ではないモノ」の中には、「色鉛筆」や「シャーペン」や「筆」等、様々な概念があります。その多様な概念に応じて、事物はさらに分類されることになります。
もちろん「鉛筆」には「H の鉛筆」「B の鉛筆」…とより具体的な「鉛筆」が分類されていきます。



ただし、この図はあまり綺麗とは一般に言えません。確かに、議論の主要な点が「鉛筆」についてなら、このような分類でも構わないことがありますが、一般的な話で考えた場合、「鉛筆」や「シャーペン」や「筆」等は分類として同じ程度の重要性を持つように感じるからです。これがどういうことなのかを考えていきます。

今回は、最初に、「鉛筆」という概念の下に、「鉛筆」と「鉛筆ではないモノ」に分けました。「鉛筆ではないモノ」という概念の中で、さらに、「シャーペン」という概念、「筆」という概念等、様々な概念に従って分類しました。

しかし、もし「シャーペン」という概念に従って分類を開始したら、「シャーペン」と「シャーペンではないモノ」に分類されることになります。そうすると、「鉛筆」は「シャーペンではないモノ」の中に分類されることになります。

このことから、「鉛筆」と「シャーペン」は同程度の抽象度にもかかわらず、「シャーペン」が「鉛筆」よりも具体的な概念のように見えるということが分かります。これは抽象度の位取りがズレているためです。



ですから、抽象度が同じ概念なら、抽象度をそろえて図示するべきだと言えます。したがって、「鉛筆ではないモノ」を消して、「シャーペン」や「筆」等の概念を繰り上げてやります。



こうすると、抽象度が同じ概念同士が、ちゃんと同じ抽象度であることが明確になります。
左に行くほど抽象度が高く、右に行くほど具体的になります。



また、「鉛筆」、「シャーペン」、「筆」等と様々な同程度の抽象度の概念に分類していくとき、あまり細かく分け過ぎるとかえって分かり難くなる場合や、どう分類したらいいか分からないモノがある場合等があります。その場合は、「その他」等のような概念で分類してしまうことも手です。




なお、「色鉛筆」を「鉛筆」と抽象度が対等な概念としましたが、人によっては「色鉛筆」を「鉛筆」に含めることもあります。そして、「鉛筆」の下位概念、つまり抽象度のより低い具体的な概念として、「黒鉛筆」と「色鉛筆」と分けます。

このような分類方法に違いが生じるのは、概念をどのように定義するかで変わって来ることの証明とも言えます。どのように分類するかは、議論をどのように行おうとするかの目的意識によって変わってきます。臨機応変に対応していけるように、頭を柔軟にしておきましょう。

なお、範疇・カテゴリーを分類していくとき、どう分類するか迷ったら、「A」と「Aではないモノ」から考えていくのも最初の一手としては効果的です。そして、分類を進めて行くに連れて、各範疇・カテゴリーの抽象度が同じであったり違っていたりすることに気付いていくはずです。その際に、改めて抽象度に応じて概念を整理していくといいでしょう。

こうして各概念に応じて分類された物事の集まり範疇はんちゅうと言います。英語では、category と言います。現在では、カタカナでカテゴリーと言うのも定着しています。
論理的思考では、概念に応じて範疇・カテゴリーを整理することが重要になります。ある主張において、前提結論 を支えるかどうかは両者の関連性が重要になりますが、その関連性とは概念に応じて分類されたモノと関係してくるからです。また、概念が事物の本質や特徴を捉えたものなので、概念自体を正しく扱えるコトがそもそも重要になり、それは同時に概念に応じた分類である範疇・カテゴリーを正しく扱えることでもあるからです。 

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3 感覚・知覚・経験

観念と概念の相違点と関係して、感覚・知覚・経験について学んでおきましょう。帰納法から観念連合まで、イギリス経験論で発展してきた考え方だと言って来たので、そもそも経験とは一体何なのか、について改めて考えてみたいと思います。

大筋は、感覚 → 知覚 → 経験 です。

つまり、こういうことです。
ある事物を認識するとき、まず感覚が働くことで、何かしらの印象を受けます。その印象と感覚に基づいて知覚することで、その印象の意味内容を理解します。そして、この意味内容を自覚化または意識化することで、経験となります。この一連の流れが、どういうことなのか、どのような過程なのかを分析していきます。

まず、最初の段階である感覚からです。
感覚とは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のいわゆる五感の働きです。五感が働くことで、何かしらの「印象」を抱くことになります。英語では、sensation と言います。眼という感覚器官は視覚を、耳という感覚器官は聴覚を、鼻という感覚器官は嗅覚を、舌という感覚器官は味覚を、肌という感覚器官は触覚を、それぞれ司っています。

こうした感覚器官を外界にある対象が刺激することで五感が働きます。外界とは、我々人間が認識しているこの現実世界とも言えます。五感が働くと何かを感じ取り、何かしらの「印象」を抱くことになります。



ここで「印象」と言った理由は、まだその「印象」が何を「意味」するかまで理解しているわけではないからです。感覚の段階では、漠然と感じているだけです。感覚器官という身体的・生理的な機能が作用しているだけで、心理的・精神的な機能までは作用していません。

例えば、桜の花を見たときに、光が眼を刺激して「桃色の光」の「印象」を持つことになります。「桃色の光」の印象を抱いているだけで、未だ「桜の花」という「意味」までは理解していないことに注意してください。

次の心理的・精神的な機能に作用する段階が知覚になります。
知覚とは、感覚を通じて外界の対象の性質を捉える作用です。英語では、perception と言います。知覚によって、感覚の段階で抱いた「印象」の「意味」を理解します。感覚器官という身体的・生理的な機能で抱いた「印象」が、知覚という心理的・精神的な機能によって「意味」として理解されることになります。



例えば、桜の花を見たときに、感覚段階では「桃色の光」の「印象」を抱いただけでしたが、知覚段階では、「この桜の花は桃色だ」という「意味」を理解することになります。

また、間違いさがしを思い出してみてください。非常に似ている2枚の絵を比べて、少しだけ異なる箇所を見つけるのが、間違いさがしです。
2枚の絵とも感覚としては「見えている」はずです。しかし、異なる箇所が見つけ出せないことも多いです。視覚では入ってきており「印象」を持っているが、知覚してその違いが意識化されて「意味」まで理解できていません。そこで、ここが異なる箇所だと教えられると、「印象」は「意味」となり理解されます。つまり、異なる箇所を知覚できることになります。

そして、この感覚と知覚の違いは英語の動詞でも習います。
例えば、see と watch です。see も watch も「見る」と日本語で訳されますが、違いがあると教わったのではなないでしょうか。
see の「見る」とは、「見えている」ということであり、特段に意識的に見ているわけではない。それに対して、watch の「見る」とは、「注意して見る」ということであり、意識的に見ている。
説明の仕方は微妙に異なっても大体このように両者の意味の区別を教わったはずです。つまり、
see は、視覚の感覚器官である眼を刺激することで、漠然と何かしらの「印象」を抱く、身体的・生理的な機能としての「見る」であり、つまり、感覚の段階であり、
watch は、感覚抱いた「印象」から、意識が働くことで何かしらの「意味」を理解する、心理的・精神的な機能としての「見る」であり、つまり、知覚の段階である、
ということが分かります。ですから、
山等の風景などを「見る」ときは、「印象」を受け取る段階で、その「意味」までは考えないので、see the mountain と言い、
映画や芝居などを「見る」ときは、その「意味」まで理解する段階なので、watch the movie と言う、
という風に区別されています。

今は常用漢字として「見る」のみが使われる、区別が分からなくなってしまいましたが、日本語でも昔は、感覚的な「見る」と知覚的な「観る」を区別して表記していました。
同様のことは聴覚についても言えます。細かく見ると、感覚的な hear は「聞く」で、知覚的な「listen」は「聴く」と区別されています。

さて、このように、感覚 → 知覚 の過程を通じて私達は色々なことを経験していきます。
ここで経験というとき、感覚 → 知覚 の過程全体を指すとともに、知覚の結果、意味内容を自覚化または意識化して獲得したモノを意味します。



桜の花を見たときに、感覚段階では「桃色の光」の「印象」を抱いただけでしたが、知覚段階では、「この桜の花は桃色」だと「意味」を理解することになり、この 感覚 → 知覚 の過程と、知覚の結果である「この桜の花は桃色だ」という「意味」が経験となります。

この「経験」における、感覚段階と「印象」と知覚段階の「意味」が「観念」に対応します。さらに、心理的・精神的な機能に重点を置いて狭く考えると、知覚段階の「意味」が「観念」だと言えます。



そして、「意味」を理解するということは、「概念」を操っていることにもなります。「概念」を操ることは、対象を他のモノと区別していることにもなります。



視覚の感覚器官である眼は、桜の花以外にも光の刺激を受け取っており、「印象」を抱いているはずです。しかし、「この桜の花は桃色だ」と「意味」を理解すると、意識が「桜の花の色」に焦点を当てることになり、桜の花以外に抱いていた「印象」は意識されず、無視されることになります。対象である「桜の花」が、他のモノと区別されています。「概念」と言えます。

人間は、様々な経験を通じて、社会常識や知識を獲得していきます。そして、積み重ねてきた経験によって、感覚段階で抱く身体的・生理的な「印象」と、知覚段階の心理的・精神的な働きである「意味」を理解することが変わってきます。それ故に、発想方法が人によって異なってくるのも納得が行きます。

経験は個人個人にとって動かし難い確固とした事実であり、強烈な記憶となります。だからこそ、自分の中では当然のコトであっても、異なる経験を積み重ねてきた他人には必ずしも当たり前のコトにはなりません。

そこで、議論するときには、異なる経験を蓄積してきた他人にも理解ができるように、結論だけでなく、その根拠も提示する必要があるわけです。そして、自分の中では当たり前のことは、隠れた前提になりがちなので、議論の過程で明示しておくべきかの判断も必要になってきます。議論で相手が論理展開について来られないとき、つい相手を馬鹿にしてしまいがちです。しかし、自分の主張が、自分の「経験」に基づき過ぎてはいないか、そして相手が追体験できる形で話を進めているかということは、意識しておかなければなりません。

このように、感覚と知覚を通じた経験によって、人間は観念と概念を自分の中に形作っていくことになります。それ故に、ある観念とある観が結びつく「観念連合」は、個人の経験に依存する割合が非常に大きいのです。

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4 表象・形象・心象

観念・概念と感覚・知覚・経験を学んだついでに、表象・形象・心象という言葉についても少し触れておきます。

表象は、知覚を基にして意識に現れる外的対象の像のことです。英語では、representation と言います。観念が、知覚の結果として意識に浮かぶ抽象的な考え、あるいは、対象についての意識・考えでしたが、表象はこれに非常に似たものです。

表象は、日本語の字面から考えるよりも、原語である英語 representation から考えた方が分かりやすいです。
representation は動詞 represent が名詞化したものです。動詞 represent は多義語なので様々な意味がありますが、「代表する」や「表す/象徴する」という意味で訳されることが多いです。
represent は、re と present に分解できます。re は「再び」を意味し、present は「贈る」や「提示する」を意味します。

represent
 re + present
再び

さらに、present は、pre と sent に分解できます。
pre は「前に」、sent は「存在する」を意味します。したがって、present は「目の前に出す」ことが意味の中心となります。

represent
 re + present
再び pre+sent
   前に 存在する
 →目の前に出す

この re と present が組み合わされた represent は、「再び」「目の前に出す」、つまり、「再び提示する」ということになります。

represent 再び提示する
 re + present
再び pre+sent
   前に 存在する
 →目の前に出す

「再び提示する」ということが原義、つまり、元々の中心的な意味になります。でも、現在 represent と言うと、「代理する」「代表する」「象徴する」「表現する」等の意味となり、「再び」の意味がどこか消えているように感じます。

しかし良く考えてみると「再び」の意味がかすかに読み取ることができます。
「代理する」と言うとき、代理人は、相手に対して、その場にいない依頼主の利益や主張を「再び提示する」ことになります。
「代表する」と言うとき、代表者は、相手に対して、その場にいない組織や構成員の利益や主張を「再び提示する」ことになります。
「象徴する」と言うとき、象徴的なモノは、相手に対して、目に見えない本質を「再び提示する」ことになります。
「表現する」と言う時、表現するモノは、相手に対して、対象の存在を「再び提示する」ことになります。

このように、represent には主語(S)が目的語(O)と同一視できるような関係にあることが分かります。そして、主語(S)は、目的語(O)が実際に眼前になくとも、それを「再び提示している」、つまり、「再現している」ことも分かります。

represent 再び提示する
 re + present
強意 pre+sent
   前に 存在する
 →目の前に出す

SはOを再び提示する

動詞 represent が名詞化した representation が「表象」を意味するとき、「再び提示する」「こと」という意味になります。
そして、「何が(S)」「何を(O)」「再び提示する」「こと」なのかと言えば、「対象についての意識」が、「対象」を、「再び提示する」「こと」ということです。

対象についての意識が(S)、
representation 再び提示すること
対象を(O)

「対象についての意識が」、「対象を」、「再び提示すること」を日本語として整えます。「対象」という言葉が2回も出てきているので1回に削減します。
「意識の中に」、「対象を」、「再現すること」と整理できます。

対象についての意識が(S)、
representation 再び提示すること
対象を(O)


意識の中に、対象を、再現すること

そして、「意識の中に対象を再現すること」という意味の「表象」は、「対象についての意識・考え」という意味の「観念」と非常に似た意味であることが分かります。「観念」を抱くのが、「知覚」によって心理的・精神的機能が作用して意識の中で「意味」を理解するためでした。

このように、「観念」と同じように「意識」の中で起きる「表象」も、「知覚」を基にしていると言えます。「表象」は、「知覚を基にして」、「意識の中に」、「対象を」、「再現すること」だと分かりました。

対象についての意識が(S)、
representation 再び提示すること
対象を(O)

知覚を基にして、
意識の中に、対象を、再現すること

そして、「再現すること」は「再現した結果のモノ」という意味を含みます。

以上のことから、表象を定義すると、知覚を基にして意識に現れる外的な対象の像になります。
表象は、外の世界の事物を知覚することで、意識の中にその外の世界の事物が観念のように生じ、その外の世界の事物についての意識の中の像ということが分かりました。

なるほど確かに、表象 representation は、「意識の中に外的な対象」を「再び提示する」しています。つまり、意識の中に、外的な対象が「再現」されていることになります。この「意識の中に再び提示された外的な対象の像」である「表象」は、「対象についての意識・考え」である「観念」と非常に似ているコトに納得が行きます。

表象:意識に現れる外的な対象の像
観念:対象についての意識・考え

両方とも意識の中の話ではあるのですが、「観念」が「意識・考え」に意味の重点を置いているのに対して、「表象」は「像」に意味の重点を置いていると言えます。
「鉛筆」の例で言えば、「観念」が「鉛筆」に対する「意識・考え」を指すことに重点を置くのに対して、「表象」は意識の中に結ばれている「鉛筆」の「像」を指すことに重点を置いています。



とは言え、人によってはほぼ同じような意味で使われることもあります。
このように、なかなか一言で定義は難しい「表象」は、広く多様な意味を持ちます。その結果、「表象」の意味は、曖昧になりやすいです。

そこで、この「表象」の意味の曖昧さを回避するために、「形象」と「心象」という言葉を用いることもあります。「形象」も「心象」も両方とも英語の image の訳です。特に「心象」は mental image と言ったりします。ただし、最近ではカタカナで「イメージ」と表されることも多いです。

実際、「鉛筆をイメージしろ」と言われたとき、頭の中で「鉛筆」の像を想い浮かべているはずです。「イメージする」と言ったら「想像する」という意味に取る人が多いですが、このとき確かに「像」を「想」っています。このように、「形象」や「心象」といった言葉を使わずにイメージと言った方が、現代人には理解されやすいかもしれません。

「形象」は、「表象」が表す「対象の像」の意味を重視した言葉です。
形象」は、「人間が知覚する外的な対象の像」を意味します。これは「対象の像」に注目しているので、「観念における具体的な像」とも言えます。いずれにしろ、「意識の中に再現されている対象の像」の「対象の像」に注目しています。

「心象」は、「表象」が表す「意識の中の像」の意味を重視した言葉です。
心象」は、「人間が再現した意識の中の像」を意味します。これは心の中に想い浮かべた像とも言えます。いずれにしろ、「意識の中に再現されている対象の像」の「意識の中の像」に注目しています。

つまり、「形象」は意識の中に結ばれている「対象の像」それ自体に注目しているのに対して、「心象」は対象の像が「意識の中で」結ばれていることに注目しているのです。



まとめると、「表象」が、知覚を基にして意識に現れる外的な対象の像を意味しました。これは「観念」と非常に近い意味でした。
そして、「表象」の中で、「対象の像」自体に注目した場合を「形象」と言い、人間が知覚する外的な対象の像や観念における具体的な像を意味しました。
また、「表象」の中で、「意識の中の像」に注目した場合を「心象」と言い、人間が再現した意識の中の像を意味しました。

このことから、心の中に浮かぶ外的な対象の像とは、対象の特徴を最もよく表していることが多いです。「侍」と言われたとき、「身長は〜cm」で「体重は〜kg」でと細かく細部を想像することなく、まず、「丁髷」「帯刀」という「侍」らしい特徴が思い浮かぶはずです。したがって、「表象」は「象徴」と似た意味でも用いられます。また、「侍」の例からも分かる通り、「表象」は「観念」と同様で、実際に見たこともないモノも、今現在見ていないモノも、「意識の中で再現する」こともできます。

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5 まとめ

以上、観念連合と関連して、観念と概念、そして感覚と知覚と経験、最後に表象と形象と心象について説明しました。

外界の「対象」から刺激を受けることで、「感覚」が作用します。そして、意識の中に「印象」が生じます。「印象」は非常に曖昧であるため、かなり抽象的なものです。



そして、「知覚」が作用して、その「印象」を「意味」として理解します。「意味」を理解することで、曖昧さが下がり抽象度も下がります。こうした「感覚」と「知覚」を通じて様々な「経験」をします。



その結果、私たちは「観念」を抱き、そこから「概念」を導き出します。明確に言語化された「概念」によって、私達は物事を深く理解できていきます。



また、意識や考えそれ自体よりも、意識の中で結ばれる像に注目すれば、それは「表象」であり、形象・心象となります。



そして、必ずしも論理的とは言えないが、ある観念が他の観念と結びつくことで多様な思考をします。
人間の持つこのような習性、または、特性を活かすことで、新しい発想や発見が生まれることになります。ただし、この特性が持つ誤った推論を導きやすいという欠点を自覚して論理的であろうとする態度を常に保つようにしなければなりません。

なお、こうした「観念」、「感覚・知覚・経験」、「表象・形象・心象」等の用語は、学問分野や論者によって非常に多種多様な定義と用いられ方をしています。ここで解説したコトは、その多種多様な定義に共通要素を多く拾い、そういう意味で使われることが多い、といったものでしかありません。各分野で各論者が、より厳密に定義して使っている場合は、その定義に従うようにしてください。


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 参考文献
◎野矢茂樹 『論理学』 東京大学出版会
○野矢茂樹 『新版 論理トレーニング』 産業図書
○照屋 華子、岡田 恵子 『ロジカル・シンキング』 東洋経済新報社
・照屋 華子 『ロジカル・ライティング』 東洋経済新報社
・アンドリュー・J・サター著/中村起子訳 『図解主義!』 インデックス・コミュニケーション
講義で適宜使った専門知識に関する文献
・吉川洋 『マクロ経済学(現代経済学入門)』 岩波書店
・伊藤元重氏 『マクロ経済学』 日本評論社
・マンキュー 『マンキュー入門経済学』『マンキュー経済学Iミクロ編』『マンキュー経済学IIマクロ編』東洋経済新報社
・スティグリッツ 『スティグリッツ入門経済学』『スティグリッツミクロ経済学』『スティグリッツマクロ経済学』東洋経済新報社
・キング(Gary King)、コヘイン(Robert O. Keohane)、ヴァーバ(Sidney Verba) 『社会科学のリサーチ・デザイン』 勁草書房
・江藤裕之 「healthの語源とその同族語との意味的連鎖−意味的連鎖という視点からの語源研究の有効性−」『長野県看護大学紀要』2002, no4, p.95-99
・Richard P. Feynman, The Feynman Lectures on Physics, Addison–Wesley
日本語:ファインマン『ファインマン物理学〈1〉力学』『ファインマン物理学〈2〉光・熱・波動』『ファインマン物理学〈3〉電磁気学』『ファインマン物理学〈4〉電磁波と物性』『ファインマン物理学〈5〉量子力学』 岩波書店
◎Charles Eames Jr 映画の書籍化powers of ten
・文部科学省「平成17年度学校基本調査 学部系統分類表」 web
・厚生労働省 健康日本21(総論) 第6章 人生の各段階の課題 web
・東京大学 web
・ポパー 『果てしなき探求〈上〉―知的自伝』『果てしなき探求〈下〉―知的自伝』 岩波現代選書
・廣松渉 編 『岩波哲学・思想事典』 岩波書店
・思想の科学研究会 編 『哲学・論理用語辞典』 弘文堂


総論 教養と学問の前に

はじめに(テキストダウンロード)
序章 学問と議論のために

 第 I 部 論理的思考
第1章 論理的であるとは
第2章 推論方法の基礎
第3章 三段論法
第4章 演繹法
第5章 帰納法
第6章 仮説推論
第7章 類比推論
第8章 観念連合
第9章 弁証法
第10章 論理的思考のまとめ
第11章 論理と誤謬
第11章(補講) 論理と誤謬

 第 II 部 論理的な問題解決 
第12章 目的と手段
第13章 演繹法と帰納法の絡み
第14章 問題と解決
第15章 論理ツリー ― what ツリー―
第16章 論理ツリー ― why ツリー―
第17章 論理ツリー ― how ツリー―
第18章 設定型の問題と創造型の問題
第19章 因果関係図
第20章 論理ピラミッドの基本
第21章 論理ピラミッド ―現象型の問題―
第22章 論理ピラミッドの応用
第23章 論理的な問題解決のまとめ

 第 III 部 教養と学問・科学
第24章 学問と科学の定義と目的
第25章 科学の方法
第26章 定性的研究と定量的研究
第27章 実証主義と反証主義
第28章 還元主義・総合・全体論
第29章 学問と専門・教養
第30章 学問の専門分化
第31章 教養と学問

引用・参考文献
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