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第11章(補講) 論理と誤謬

論理的思考が体系化されれば、後は実践あるのみです。論理的思考を用いて、様々な問題に対処したり、議論を交わして行けばよりのですが、方法論に則りながら臨機応変に実践して行く際に、その気が無くとも、つい誤った推論や結論を導いてしまうこともあります。そこで、論理的思考を実践するときに、陥りやすい誤謬、つまり、誤りを簡単にまとめておくことにします。

なお、これは、前頁の補講であり続きです。前頁を読んでいないと、解説の中身が飛んでいるように感じるところもあるので先に前頁を読むようにしておいてください。

目次
1 議論と誤謬・詭弁・強弁
2 強弁
3 形式面の誤謬
4 内容面の誤謬
5 証明責任に関する誤謬
6 主題に関する誤謬
7 まとめ

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1 議論と誤謬・詭弁・強弁

誤謬や詭弁や強弁が、議論に関するルールを破ることだと分かったところで、順番に見て行きます。最初は、そもそも論理的である以前のものである強弁について見ます。次に、誤謬と詭弁について、各ルールに反しているものについて順に見て行きます。

なお、誤謬や詭弁はどれか1度に1つのみが用いられるとは限らず、同時に複数の誤謬が用いられることが多いです。できるだけ1つの主張につき1つの誤謬があるような例にしましたが、重なる部分もあります。したがって、見方を少し変えれば、違う誤謬だとも言える場合もあることには目を瞑ってください。

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2 強弁

強弁の主なものは、論理の形式すら装ってないことが多いです。

1.根拠の不在

まず最初に、論理的主張には形式として、結論根拠が必要でした。しかし、結論のみを主張して根拠を述べないと、強弁になります。結論が正しかろうが間違っていようが、論理的とは言えません。結論のみの主張は、最初から同じ意見の人しか納得しないことが多く、異なる意見を持っている人にとっては受け入れることが困難になります。

(11.1)次の主張の論理的な誤りを考えよ
甲:太郎はもっと勉強すべきだ

(11.1)の場合、「太郎はもっと勉強すべきだ」という主張は、結論のみで、根拠がありません。これでは論理的とは言えませんでした。

したがって、議論の際には、甲に対して、
「太郎はもっと勉強すべきだ」と主張する根拠は何か?
ということを尋ねなければなりません。

(11.1)次の主張の論理的な誤りを考えよ
甲:太郎はもっと勉強すべきだ
その根拠は何か?

そうすれば、甲は、「太郎の成績が悪いから」等、何かしらの根拠を付け加えてくるはずなので、「太郎の成績が悪い」ことが正しい根拠なのかが議論の的になって行きます。

補足ですが、甲が「勉強すべきだ」と述べていますが、「〜すべき」「〜しなければならない」といった義務や、「〜すべきではない」「〜してはならない」といった禁止等の表現は、規範表現と言います。規範とは、行動や判断の基準となる原則を意味します。行動や判断の基準となる原則である規範があるから、「〜すべき」「〜すべきではない」といった義務や禁止の考えが生まれることになります。

「〜すべき」という義務表現は、主張者がその行動を善いことと考えているから主張なされることが多く、
「〜すべきではない」という禁止表現は、主張者がその行動を悪いことと考えているから主張なされることが多いです。

そして、規範表現がある場合、何かしらの価値観が隠れた前提となっている可能性が高いです。

「成績が悪いこと」を根拠に「勉強すべきだ」という勉強を義務付けるような結論を導くと、そこには、「成績が悪いことは善くないことだ」という価値観があると考えられます。

(11.1)次の主張の論理的な誤りを考えよ
甲:太郎はもっと勉強すべきだ
その根拠は何か?
<根拠> 太郎の成績が悪い
<隠れた前提> 成績が悪いことは善くないことだ

隠れた前提を見つけ出せるなら見つけておきましょう。議論をより深くする上で有効になるかもしれません。

2.価値観の強要

価値観が隠れた前提になる可能性が高いことに関係して、価値観が隠れた前提根拠になると、強弁になる可能性も高くなります。価値観は人によって多様ですし、共同体や国によっても異なります。そこに明確な優劣をつけることは難しいです。特に、現代社会では、価値観についてやたら滅多に優劣をつけることは忌避されています。

(11.2)次の主張の論理的な問題点を考えよ

     日本の男はひ弱なのがモテるためか筋肉が全然ない。
     日本の男もアメリカのようにもっと筋肉質になるべきだ。

これも「〜すべき」と規範的な表現です。「筋肉が全然ない」ことを根拠として、「筋肉質になるべきだ」と主張されているので、隠れた前提として「筋肉質ではないのは善くないことだ」という価値観があります。

(11.2)次の主張の論理的な問題点を考えよ
<隠れた前提> 筋肉質ではないのは善くないことだ
<根拠> 日本の男はひ弱なのがモテるためか筋肉が全然ない。
[結論] 日本の男もアメリカのようにもっと筋肉質になるべきだ。

アメリカでは筋肉質な男がモテるのに対して、日本ではひ弱な男がモテます。そこには価値観の違いが確かにあります。しかし、筋肉質の男の方が優れていて、ひ弱な男の方が劣っているわけでもありません。両方の価値観は対等で相対的なモノです。このように価値観が根拠または隠れた前提になった主張は、その価値観を受け入れられない人にとっては強弁になります。

反論としては、「規範や価値観は相対的なのものであり、強要すべきではない」というのが考えられます。この主張自体が規範の強要になっていますが、強弁には論理で返しても無駄な場合が多いので、強弁で対抗するのも、ある程度は仕方ありません。

このように、相対化が進んだ現代社会でも許されない規範や価値観はあります。
差別的な価値観等は認められないので、これを価値観の多様性だとして、「差別的な価値観を持つことだって許される」といった主張、基本的に避けた方がいいでです。先進国に住む限り、差別的価値観の他に、自由や民主主義を否定するような価値観も許されません。根拠に価値観をおくのはできるだけ避けるべきですが、どうしても価値観を置くのならば、先に言ったようなほぼ皆に共有されていると確信できるモノに限るのが無難です。

また、規範や価値観の相対化をひたすらして行くと、お互いに何も共有するモノが無くなってしまいます。これは現代の病理と言ってもよいかもしれません。個人主義の風潮で、皆が皆自分の価値観を第一に置きます。そうすると、対立はいつまでも解消せず、やがて解消したとしてもそれは許容可能な範囲の外で行われる可能性が高くなります。どこかでお互い歩み寄る心も必要になります。

価値観の強要からは、相手に反論するとき、結論ではなく根拠か推論方法を崩す必要があることがよく分かります。
主張は「〜すべき」「〜すべきではない」といった規範的な表現になりやすいです。そうするとある意味では価値観を持った結論と考えられます。ですから、結論自体を否定しようとしても、それは価値観の否定にしかつながらない確率が高いです。そうすると、避けるべき価値観の否定に陥ります。ですから、価値観を反映している結論自体に反論しても、価値観は相対的なモノという考えから意味が無くなってしまいます。そして、結論を支える根拠は、相対的な価値観ではなく、数字や事実などの客観的なモノであることが求められます。根拠が数字や事実などの客観的なモノであれば反論もできるので、議論を有益なモノにできます。

なお、私自身は、ひ弱なのよりも筋肉質な方が優れていると思いますが、それを以って今の日本の現状を個人的に嘆きはしても、公共の場で声高に主張することはかなりの限られた場合でしか有り得ないと思います。あと、ここでの「ひ弱」というのは、日本で人気の俳優とアメリカで人気の俳優を比較したとき、骨格的な違いを除いたとしても、日本の俳優の筋肉量が著しく少なく見え、その人数も多いことから来た表現だと推測されます。

他にも誤謬を犯していることを指摘されても、訂正せずひたすらに自分の主張を押し通そうとしたりすると強弁になります。相手の主張の問題点を指摘して論理的に議論することを要求しても強弁を止めない場合は、残念ですがその議論は諦めましょう。

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3 形式に関する誤り

まず推論の形式に関する誤謬と詭弁について考えます。

まず三段論法の形式に則っているように見えて、実際は正しい推論になっていないパターンの誤謬や詭弁です。

ここでは、推論の形式の論理的な誤謬に注目するので、ここで述べる前提命題は基本的に真とします。
前提命題が正しいのならば、後は正しく推論すれば、結論命題も正しくなります。
しかし、推論の方法が正しくないために、結論 命題が必ずしも正しいとは限らなくなり論理的に弱いものになります。

まず演繹法による推論に関係が深いものか見て行きます。

3.選言肯定の誤謬

選言肯定の誤謬は、第3章 三段論法 2 選言三段論法で見た陥りやすい誤謬です。
「P または Q」という大前提の下に、「P である」という小前提から結論「Qではない」と推論するのは正しくないということです。
大前提「P または Q」が真のとき、「P が偽、かつ、Q が偽」が常に偽であり除かれるので、あり得る可能性は、
「P が真、かつ、Q が真」
「P が真、かつ、Q が偽」
「P が偽、かつ、Q が真」
の3通りの場合です。

このとき、小前提「P である」として「P が真」であることを肯定しても、可能性として消去されるのは「P が偽、かつ、Q が真」のみです。
残りの2つの場合である、
「P が真、かつ、Q が真」
「P が真、かつ、Q が偽」
「P が偽、かつ、Q が真」
が可能性として残るので、Q は真かもしれないし、偽かもしれません。したがって、結論で「Qではない」と言い切れないことになります。選言「または」は、P と Q が両方とも真であることが許される包含的な場合を表すことがあるために生じやすい誤謬でした。

しかし、選言「または」は、排他的な場合もありました。つまり、P か Q のいずれか一方のみが真としかならない場合です。
この排他的な場合で考えると、大前提「P または Q」が真のとき、そもそも「P が真、かつ、Q が真」が偽となり除外され、かつ、「P が偽、かつ、Q が偽」が偽となり除かれるので、あり得る可能性は
「P が真、かつ、Q が真」
「P が真、かつ、Q が偽」
の2通りの可能性があります。

このとき、小前提「P である」として「P が真」であることを肯定すると、「P が偽、かつ、Q が真」が可能性として消去されます。したがって、
「P が真、かつ、Q が偽」
の場合のみ残ることになり、結論で「Qではない」と言い切れることになりました。

選言肯定の誤謬
・選言肯定の誤謬(包含的場合)
 <大前提> PまたはQ
 <小前提> Pである
 [結論] よって、Qではない

・選言肯定の誤謬(排他的場合)
 隠れた前提を明らかにすれば正しい推論
 <大前提> PまたはQ
 <小前提> Pである
 <隠れた前提> PとQは両立しない
 [結論] よって、Qではない

選言「または」が包含的な場合なのか、排他的な場合なのか、曖昧な場合は、勘違いが生じないようにするためにも、明らかにしておくように心掛けましょう。

(11.3)選言肯定の誤謬
<前提> 旅行はイギリスかフランスに行く
<前提> イギリスに行く
[結論] よって、フランスには行かない
これだけでは正しい推論とは言えない
<隠れた前提> イギリスとフランスの両方に行くことはない
があって初めて正しい推論になる

4.前件否定の誤謬
5.後件肯定の誤謬

条件法に関する誤謬です。これも第2章 推論方法の基礎 5 条件法で出てきました。
前件否定の誤謬については、正しい推論である前件肯定規則の(2.12)で詳しく見ました。
後件肯定については、正しい推論である後件否定規則の(2.13)で見ました。また、これは正・逆・裏・対偶の真偽の違いにも関係することです。

まず、この誤謬が発生しやすい理由に、正しい推論である前件肯定規則と後件否定規則があります。

前件肯定規則
<前提> P ⇒ Q
<前提> Pである
[結論] よって、Qである

後件否定規則
<前提> P ⇒ Q
<前提> Qではない
[結論] よって、Pではない

この前件肯定規則と後件否定規則に従えば正しい推論となりますが、この2つの規則がごちゃ混ぜになって、前件否定してしまったり、後件肯定してしまうことがあります。

条件法におけるの誤謬
・前件否定の誤謬
 <大前提> P ⇒ Q
 <小前提> Pではない
 [結論] よって、Qではない

・後件肯定の誤謬
 <大前提> P ⇒ Q
 <小前提> Qである
 [結論] よって、Pではない

これは必ずしも正しい結論を導くとは限らないため、正しい推論とは言えません。

(2.12)を見てください。これは前件肯定規則の例でした。

(2.12)次の2つの前提から得られる結論は何か
<前提> 雨が降るならば、試合は中止だ
<前提> 雨が降(ってい)る
[結論] よって、試合は中止だ

ここで、前件否定をして「雨が降っていない」である場合、結論「試合は中止ではない」と推論してはいけません。

(11.4)前件否定の誤謬
<前提> 雨が降るならば、試合は中止だ
<前提> 雨が降っていない
[結論] よって、試合は中止ではない
これだけでは正しい推論とは言えない

前提「雨が降るならば、試合は中止だ」という命題は、「雨が降る」場合には、必ず「試合が中止」になることが起きるということを表しているだけです。「雨が降っていない」場合については、何も言っていません。つまり、(2.12)から分かることは「雨が降る」場合に「試合が中止」であることだけで、「雨が降らない」場合については、何も分からないことになります。「雨が降っていない」としても、地震で試合は中止になるかもしれません。ですから、前件否定をした推論は、必ずしも正しい結論を導くとは限らないわけです。

もちろん日常生活では、前件否定の誤謬だとしても、「雨が降っていないから、試合は中止ではない」と考えても間違いでないことが多いです。しかし、このとき気を付けるべきことは、隠れた前提として「雨が降っていないならば、必ずる試合は行われる」という命題があることです。

(11.4)前件否定の誤謬
<前提> 雨が降るならば、試合は中止だ
<前提> 雨が降っていない
[結論] よって、試合は中止ではない
これだけでは正しい推論とは言えない
<隠れた前提> 雨が降っていないならば、(どんなことが起きようとも)必ずる試合は行われる
があって初めて正しい推論になる

日常生活で、わざわざ隠れた前提「雨が降っていないならば、必ずる試合は行われる」を明らかにしなくても、その場の状況や常識に照らせば分かるコトなので、省略されてしまいます。

また、隠れた前提「雨が降っていないならば、必ずる試合は行われる」ということを明示してしまうと、「雨さえ降らなければ、たとえ大地震が起きたとしても、試合を決行する」ことを論理的には意味してしまいます。有り得ないですね。常識に照らして分かることなのに、いちいち揚げ足を取るように隠れた前提をついていくことは、相手の怒りを買うだけですし、やめましょう。

ですから、隠れた前提を指摘するのは、議論の主題に関わり、曖昧さを残すべきではないときや、隠れた前提を指摘することで、相手の主張が主題とは関係ないことを示す等の重要な局面で使うようにしましょう。

(2.13)を見てください。これは後件否定規則です。

(2.13)次の2つの前提から得られる結論は何か
<前提> 雨が降るならば、試合は中止だ
<前提> 試合は中止ではない
[結論] よって、雨は降っていない

ここで、後件肯定をして「試合は中止だ」である場合、結論「雨は降っている」と推論してはいけません。

(11.5)後件肯定の誤謬
<前提> 雨が降るならば、試合は中止だ
<前提> 試合は中止だ
[結論] よって、雨が降っている
これだけでは正しい推論とは言えない

前件否定の誤謬で説明したように、前提「雨が降るならば、試合は中止だ」からは、「雨が降る」場合に「試合が中止」であることのみが読み取れるだけです。したがって、「試合が中止である」場合については、「雨が降っている」のかどうかは分かりません。地震で中止になったのなら雨は降っていないことになります。ですから、後件肯定をした推論も、必ずしも正しい結論を導くとは限らないわけです。

後件肯定の誤謬を犯していても、正しい推論になるとすれば、隠れた前提があることになります。隠れた前提は「試合が中止のときは、必ず雨が降っている」といったものです。

(11.5)後件肯定の誤謬
<前提> 雨が降るならば、試合は中止だ
<前提> 試合は中止だ
[結論] よって、雨が降っている
これだけでは正しい推論とは言えない
<隠れた前提> 試合が中止のときは、必ず雨が降っている
があって初めて正しい推論になる

ただこれも、前件否定の誤謬の場合と同じで、わざわざ明示すべきかと言うと微妙なところです。常識的に考えれば、「大地震が起きたら試合は中止になる」ことは分かります。そして、何より、現実問題として、大地震は滅多に起きるものではありません。それを日常生活で、しかも議論の主題である「試合」の日に限って起きるかもしれないと考えるのは、適切かどうか言えば、不適切と言えます。議論の主題は「試合が中止」のときはどのような場合なのかなので、確率的に起きる可能性が高い場合にことに絞って議論しているのに、滅多にないことを持ち出しても主題との関連性が薄いことになります。

このように、前件否定にしろ、後件肯定にしろ、論理的思考では、できるだけ曖昧さが残らないように気を付けなければならないのですが、やたら滅多に「そんなことは言ってはいないではないか」等と攻撃してはいけません。現実の出来事をすべて予想することは不可能ですし、たとえ予想できたとしても、それをすべて述べていたら、膨大な量になり、逆に分かり難くなります。

議論の核心に迫ったり、重要な場面では、
隠れた前提を指摘する等して論理的な弱さを明らかにし、相手の主張を修正・却下する必要があるかもしれませんが、隠れた前提
を明示せずに推論したために、正しくない推論方法になっていたとしても、隠れた前提を逐一指摘したり推論方法の誤謬を指摘するのは、野暮というものです。指摘している自分が、逆に議論の主題から外れて行くことになる危険もあります。議論の主題との関連性を意識して、隠れた前提を自分で補って考えれば十分なのか、指摘しておいた方がいいのかしっかりと判断しましょう。

後件肯定の誤謬に補足しておきたいコトは、仮説推論では、仮説形成段階では、後件肯定が用いられることが多いということです。
とはいえ、仮説推論では、仮説形成段階で後件肯定を用いても、その後に仮説検証で仮説が間違っていないことを証明するので、誤謬を補うような前提を持って来て結論を導いているので許容されます。後件肯定の誤謬を犯しているように見えても、隠れた前提が分かれば正しい推論になるのと同じです。

次に、帰納法による推論に関係が深いものを見ましょう。

6.早まった一般化
7.観測結果の選り好み

早まった一般化は、少数の観察事実だけなのに、一般的な命題や法則を導く誤謬です。
観測結果の選り好みは、様々な観察事実から自分の主張に都合の良いモノだけを選ぶことです。

これは帰納法の説明で散々言って来たことなので、特段説明する必要もないでしょう。なぜ早まった一般化が誤謬になるのか理解できていなければ、今まで説明して来た第5章 帰納法以下をよく復習しておいてください。

例えば、自分個人の経験をさも一般的なものであるかのように語るのも早まった一般化です。「勉強ができる友人は性格が悪かった。だから勉強のできる人は皆性格が悪い」といったものです。

(11.6)早まった一般化
<前提> 勉強ができる友人は性格が悪かった
[結論] よって、勉強できる人は性格が悪い

この誤謬に対しては、観察事実の少なさを指摘し、そのような少ない観察事実から一般化された命題は根拠として不十分である、といったものが考えられます。その指摘だけでは弱ければ、その早まって一般化された命題に反する事例、いわゆる反例を示せば十分です。

そして、「勉強ができる友人 A、B、C は性格が悪かった」ことと「勉強できる友人 D は、性格が良かった」ことから、「勉強できる人は性格が悪い」と結論付けた場合には、観測結果の選り好みになります。

(11.7)観測結果の選り好み
<前提> 勉強ができる友人 A、B、C は性格が悪かった
<前提> 勉強できる友人 D は、性格が良かった
[結論] よって、勉強できる人は性格が悪い

前提「勉強できる友人 D は、性格が良かった」が意図的に無視されています。もちろん、反例を示すのは、観測結果の選り好みを指摘することができます。

とは言え、世の中のすべての場合を調べ尽くすのは現実には不可能なので、ある程度の数の事実を観察したら一般化してもかまいません。ある程度の数の事実から一般化された命題に対する反論は、一般化された命題に反する事実が無視できない程度に観察されることを指摘することになります。

その反論が、ごく稀な例外であったりすれば、一般化された命題はまだ有効性があると言え、「ただし、〜という例外があるが、この例外は非常に稀なので、一般的な話としては十分に有効である」ということになります。このように、十分な数の観察事実から推論された場合は、論理的形式に則っているので、早まったモノよりも根拠の強さが全然違います。

8.合成の誤謬
9.分割の誤謬

これは帰納法の中でも、仮説推論で陥りやすい誤謬です。
合成の誤謬とは、部分で成立することが全体で成立するとは限らないのに、それを適用することで誤ること
分割の誤謬とは、全体で成立することが部分で成立するとは限らなにのに、それを適用することで誤ること
定義から分かる通り、合成の誤謬と分割の誤謬は対の誤謬になっています。

部分で成立することが、全体で成立するとは限らないとはどういうことか例を見てましょう。(11.8)です。

(11.8)合成の誤謬
<前提1> 原子は目に見えない
<前提2> 人の体は原子で構成されている

[結論] よって、人の体は目に見えない

これは間違った主張であるのは明らかなのですが、2つの前提1前提2も正しいです。

しかし、よく考えなくても当たり前ですが、「原子で構成されている」モノと、バラバラの「原子」は別物です。(11.8)の主張が正しくなるためには、隠れた前提として「原子で構成されているモノは目に見えない」が必要ですが、これが正しくないといけません。

(11.8)合成の誤謬
<前提1> 原子は目に見えない
<前提2> 人の体は原子で構成されている
<隠れた前提> 原子で構成されているモノは目に見えない
[結論] よって、人の体は目に見えない

原子が目に見えないのは確かですし、原子が結合した分子でもまだ目には見えません。細胞も目には見えません。内臓になると目に見ます。いわんやその集まりである人間の体は目に見えます。つまり、隠れた前提「原子で構成されているモノは目に見えない」は正しくありません。したがって、隠れた前提が誤っており根拠の1つとして推論されているので、結論も正しくありません。

他にも、日本は長いこと不景気で苦しんでおり、多くの人は老後の生活も心配しています。もしかしたら職も失うかもと、結構の人が不安です。ですから、個人単位で見ると、貯金に励んで浪費をしないコトは、合理的で正しいと考えることができます。しかし、個人単位で正しかった行動が、日本人全体でやると、余計に景気を悪くし、合理的とは言えない結果になります。これも、合成の誤謬と言えます。個人単位では正しくとも、総合した全体で考えると正しくない結果となっています。

また、何か問題が起きる度に、それぞれの問題については合理的な策で対処していったとします。そして、色々な問題を解決していく内に、気がついて見ると一方で合理的であった策が、他方では不都合な問題を引き起こしているコトに気が付くことがあります。つまり、部分では正しい解決策だったのに、全体で見てみると、非効率で煩雑な作業を必要とする間違ったモノになっているコトが少なくないということです。官僚制の肥大化による非効率や同じ問題を2つの異なる部署が担当する二重行政等もこれと似ています。

このように、合成の誤謬は、全体の中の部分において正しいことを以って、その部分が属している全体においても正しくなると考えたことから生じるものです。
そもそも、理論や法則というのは、その適用範囲が限定されているモノです。ある命題や法則は、全体の中の部分では正しく成り立つが、全体でも成り立つとは限りません。適用範囲が部分のみで全体ではないかもしれません。
したがって、仮説推論としては、部分から全体を支配する命題を考えるのはおもしろいですが、それは仮説なので、検証する必要があります。気を付けましょう。

分割の誤謬は、合成の誤謬の反対です。
つまり、全体で正しく成り立つ命題や法則が、部分で正しく成り立つとは限らないことです。(11.9)を見てください。

(11.9)分割の誤謬
<前提1> 自動車は走ることができる
<前提2> 自動車にはエンジンがある

[結論] よって、エンジンはそのままで走ることができる

これも間違った主張であるのは明らかなのですが、2つの前提1前提2も正しいです。

しかし、「エンジン」は確かに「自動車」の部品の一部ですが、部品が精密に組み合わされている「自動車」とは別物です。(11.9)の主張が正しくなるためには、隠れた前提として「自動車の部品はそのままで走ることができる」が必要で、これが正しくないといけません。

(11.9)分割の誤謬
<前提1> 自動車は走ることができる
<前提2> 自動車にはエンジンがある
<隠れた前提> 自動車の部品はそのままで走ることができる
[結論] よって、エンジンはそのままで走ることができる

「自動車」が走るのは、確かに「エンジン」の力は大きいですが、他にも車輪や制御系の部品等色々必要です。当たり前ですが「エンジン」だけでは走ることができません。

他にも(11.8)を逆から見て行けば、いいわけです。
「人の体は目に見える」
「人の体は原子で構成されている」
よって「原子は目に見える」
というものです。有り得ないですね。

他にも類似したものに、
「東大生は頭が良い」、
「太郎君は東大生だ」、
よって「太郎君は頭が良いはずだ」、
というのも分割の誤謬の一種です。
「東大生は頭が良い」というのは、まぁ世間一般で言われていることですし、入試難易度や研究実績や官庁や企業で活躍する人の多さを考慮しても、一応正しいとしてもよいでしょう。しかし、「東大生は頭が良い」は、「東大生」の全体の傾向として正しいとしても、個別の「東大生」がすべて「頭が良い」わけではなく、少ないかもしれませんが例外もあるわけです。「東大生は頭が良い」というのは経験的に事例を集めて帰納法によって導き出された命題ですから、そうであるという確率が高いという蓋然性です。例外もあるわけです。だから、「東大生は頭が良い」ことから個別の「東大生」が「頭が良い」ということを推論しても、必ずしも正しいとは限りません。これは仮説が強いので、「太郎君は頭が良い」ことを検証する必要があります。

このように分割の誤謬は、全体で成り立つことを、分割していって、部分でも成り立つと考えたことによって起きます。

合成の誤謬や分割の誤謬を犯さないようにするには、理論や法則は、それがどんな場合に適用できるのかよく考えておかなければなりません。
全体の一部に当てはまるからと言っても、全体に当てはまるとは限りませんし、その逆に、全体に当てはまることを、全体を構成する一部にも当てはまるとは限りません。当たり前のことですが、これは本当によく犯しがちです。こうして導かれた結論は一種の仮説です。事実が起きていることに対しての、有り得る合理的な説明の1つでしかありません。ですから論理的主張にするには、仮説検証が必要です。

10.誤った類比

仮説推論と似て、類比推論も、必ずしも正しいとは限らない結論を導き出しました。類比推論は、最初の発想段階では有効ですが、検証なしに使うのは、余りよろしくありませんでした。

また、これは難解な事柄を簡単な事柄に喩えて理解を助ける比喩にもつながります。しかし、似ているとは言え、別物です。比喩自体は自分の主張をより正しく伝えるために使ってもよいのですが、それを論理的主張の軸となる根拠に置くのは得策ではありません。易しい事柄で難しい事柄の本質を明らかにすることと、自分の主張を論理的に構築することとは分けておかなければなりません。

(11.10)を見てください。

(11.10)誤った類比
<前提1> 彼は人間誰しもが自文化に愛着を持つと言っている
<前提2> 自文化への愛着を主張する者はナチスである

[結論] よって、彼はナチスと同じだ

これは、誤った類比です。確かに「ナチス」は、「自文化への愛着」を声高に主張したのは事実です。ヒトラー率いるナチスはドイツの民族と文化の優越性を説き、そこへの愛情を全力で肯定して、他の民族や文化を攻撃しました。

ちなみに、ヨーロッパやアメリカで、ナチス信者と思われたら、かなり批判を受け信頼を失うことになります。これは日本でもナチスは許されないと教育されてるので一応分かったつもりになりますが、日本人の平均的な考え以上に、欧米でのナチスへのトラウマは、半端ではないです。もし欧米の人と話す機会があるなら試してみてください、とは言えないくらい本当に忌避されています。だからこそ、このナチスとの同一視が滅茶苦茶強い相手への批判になり得るわけですが。

でも、この類比推論は正しくありません。「ナチス」が行ったことと同じだからという類似点から、自文化への愛着」を主張する者を「ナチス」と同じくらい危険な人物と認定しているわけです。しかし、ただ「自文化への愛着」を主張することが、「ナチスである」ことに直結しません。

もしこの主張が正しいものと言えるならば、「自文化への愛着は、必ずナチスと同じ結末を引き起こす」という隠れた前提があることになります。

(11.10)誤った類比
<前提1> 彼は人間誰しもが自文化に愛着を持つと言っている
<前提2> 自文化への愛着を主張する者はナチスである
<隠れた前提> 自文化への愛着は、必ずナチスと同じ結末を引き起こす
[結論] よって、彼はナチスと同じだ

隠れた前提「自文化への愛着は、必ずナチスと同じ結末を引き起こす」は、正しくありません。ナチスの問題点は、複雑なので一言で説明するのは難しいですが、その排他性が問題であり、多くの人間が持つ「自文化への愛着」を利用しただけに過ぎません。実際、「自文化への愛着」が強いのは、イギリスもアメリカも同じでした。しかし、英米はドイツ・ナチスのようにはなりませんでした。

このように誤った類比は、本質とは無関係な所で、類似点に注目して推論する誤謬です。類比推論で説明した通り、類比推論も一種の仮説です。検証なしには使うことは避けるべきです。

なお、このナチスへの同一視は、人格攻撃にも繋がることですが、ここでアメリカの弁護士マイク・ゴドウィンさんが面白いことを法則化しています。
「インターネット上での議論が長引けば長引くほど、ヒトラーやナチスを引き合いに出すことが多くなる」
というもので、通称ゴドウィンの法則です。
この現象は色々な面から説明できるでしょう。議論が長引いて来ると疲れますし、論点が整理されて論理的弱点も補われて来ます。そうすると、後はレッテル貼りや人格攻撃に走ってしまうもんなんですかねぇ。インターネット上では顔も名前も知らない人が相手なので、自分の主張が崩された腹いせに過激なコトを言っても逃げてしまえばいいわけですし。
cf.人格攻撃

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4 内容面に関する誤謬

次に、命題内の概念や各命題間の関連性における誤謬について見て行きます。関連性をハッキリさせるためには、隠れた前提を見つけ出してやると効果的なことが多いです。

ここでは、推論の形式ではなく、命題の内容に関する誤謬に注目します。つまり、推論方法が正しいとても、前提命題が正しいとは限らないために、結論命題が正しくなるとは限らなくなり、論理的に弱いものになります。

命題の中にある概念の定義の曖昧性等によって生じる誤謬から見ます。

11.誤った二分法

誤った二分法は、第2章 推論方法の基礎 2 肯定と否定で見た否定「〜ではない」という考えに関係が深いものです。(11.11.1)を見てください。

(11.11.1)排他的選言における選言否定
<前提> 人間の性別は、男または女である
<前提> 男と女は同時に成立することはない
<前提> 甲は男ではない
[結論] よって、甲は女である

「男」を否定して「男ではない」と言うと、それは、「女」を意味することになります。生物学的な「人間の性別」に関しては、「男」か「女」しかないからです。

これは排他的な選言「P または Q」と言えます。P と Q のいずれか一方のみが真となるものです。排他的選言では、「P または Q」が真だとすると、一方を否定すると自動的にもう一方になります。

では、(11.11.2)はどうでしょうか。

(11.11.2)誤った二分法
<前提> 彼は私のことが好きではない

[結論] よって、彼は私のことが嫌いだ

これは、論理的には正しくありません。 「好き」を否定すると、「好きではない」となります。そして、「好きではない」というのは、「嫌い」ということを意味していると考える人もいれば、好きでも嫌いでもなく「普通だ」と考える人もいます。しかし、厳密に言えば、「好きではない」と言うと、「好き」ということを「否定」しただけで、「普通」なのか「嫌い」なのかは分かりません。

 

(11.11.2)では「好きではない」という言葉から、勝手に「普通だ」という可能性を排除して、「嫌いだ」と結論付けています。これが正しいと言えるためには、段階性を排除した「好きか、嫌いかは、必ずどちらか一方のみが成立する」という二分法が、隠れた前提としてあるコトになります。

(11.11.2)誤った二分法
<前提> 彼は私のことが好きではない
<隠れた前提> 好きか、嫌いかは、必ずどちらか一方のみが成立する
[結論] よって、彼は私のことが嫌いだ

しかし、隠れた前提「好きか、嫌いかは、必ずどちらか一方のみが成立する」というのは、先に見た様に、偽です。正しくありません。「好き」には段階性があり、「好きではない」と言うと、「普通」や「嫌い」があるから二分法で綺麗に分けられません。

ここに誤謬が見られます。したがって、誤った二分法とは、本来は二分法によって分けられないモノを、前提として「A は、必ず P か Q のいずれか一方である」と考えて、前提に「A は、P ではない」を持ってきて、「A は、Q である」と結論付けるものです。

誤った二分法
<前提> A は、必ず P か Q のいずれか一方である
<前提> A は、P ではない
[結論] よって、A は Q である
・<前提>は<隠れた前提>になることが多い

このように、概念は正しく使わなければなりません。相手がこの誤った二分法を使って来たら、前提の「A は、必ず P か Q のいずれか一方である」が正しくないことを指摘する必要があります。隠れた前提になっていることも多いので気付かないと相手の主張に流されてしまいます。
cf.未知論証

12.多義語の誤謬

多義語の誤謬は、概念が複数の意味を持ち曖昧であるために生じる誤謬です。(11.12)を見てください。

(11.12)多義語の誤謬
<前提1> 車を運転するには免許が必要だ
<前提2> 自転車は車に分類される
[結論] よって、自転車を運転するには免許が必要だ

この論理構造は、

<前提> P ⇒ Q
<前提> S は P だ
[結論] よって、S ⇒ Q

となっており、正しい推論の形式になっています。また、前提1「車を運転するには免許が必要だ」も、前提2「自転車は車に分類される」も正しいです。しかし、(11.12)の結論「自転車を運転するには免許が必要だ」は誤りです。なぜ正しい前提から正しい推論によって導いた結論が偽になるのでしょうか。

その理由は簡単で、前提1前提2の共通概念である「車」の意味が違うからです。
前提1の「車」は、日常における使われ方で、「自動車」を意味しています。
前提2の「車」は、いわゆる法律上で定義される「車輪を持つ乗り物」の意味です。
本来、共通概念は同じ意味で使うべきなのに、各前提で違う意味で使ってはいけません。

このように、同じ概念が、各命題で違う意味で使われることを、多義語の誤謬と言います。多義語の誤謬は、議論が進んでいく内に知らず知らず同じ言葉なのに、違う意味で使ってしまう等して起きます。また、相手を煙に巻くために、意図的にすり替える場合も多いです。言葉の意味が変化していることに気付いたら、指摘して、区別して違う言葉を用いるようにしなければなりません。でないと論理的に見えてトンデモな結論が導かれるかもしれません。

したがって、議論で概念が新しく出て来る度に、しっかりと定義して、「このような意味で用いる」とお互いに意識しておかなければなりません。人や専門分野によって同じ言葉でも違う意味に使われることが多いので、議論が開始する段階で、言葉を定義しながら進めるようにしましょう。
cf.藁人形論法

13.連続性の誤謬

多義語の誤謬と似たもので、言葉の定義に曖昧性があることによって生じる誤謬に連続性の誤謬というものがあります。(11.13)を見てください。これは砂山のパラドックスと言われる典型的な連続性の誤謬です。

(11.13)連続性の誤謬
<前提1> 砂山から砂粒を1つ取り出しても、砂山のままである
<前提2> さらにもう1粒取り出しても、砂山のままである
[結論] よって、砂山からいくら砂粒を取り出しても、砂山は砂山のままである

砂山が一定程度小さくなった段階で、砂山は砂山ではなくなりますが、推論だけ聞いてると、正しく感じてしまいます。
しかし、さすがに1つの砂粒を砂山と言うのには無理があります。
このような誤った結論が導かれる原因は、どの程度の量集まったら「砂山」と言えて、どの程度では「砂山」とは言えないのかという明確な線引きがされていないためです。つまり、「砂山」という言葉の持つ意味の曖昧さによって、誤謬が起きています。

他にも砂山のパラドックスと同じ構造を持ったものに、禿のパラドックスというのがあります。
「禿げていない人の頭から髪を1本抜いても、禿げていない」
「さらにもう1本髪を抜いても、禿げていない」
よって、「禿げていない人の頭から何本も髪を取り出しても、禿にはならない」
といったものです。これが真であったら、世の中の多くの男は歓喜することでしょうか。祖父母や両親を見ても遺伝的にはおそらく大丈夫だとは思うのですが、生活環境的にはやはり禿げの恐怖は私にもあるわけです。

また、日常に目を移してみると、広告とかで連続性の誤謬を犯していたり、そう考えてもよさそうなものも多いです。
以前、ちょっと服を買おうと思ってブラブラしてたら、店員に「特別大特価で8千円でなんです。これが8千円って安いですよ」と言われたことがあるんですが。「この服で8千円って安いのか?」と思ったんで、どれだけ値引きされているか見たんですが、9千円から8千円になっているだけでした。店員にとっての「特別大特価」と、私にとっての「特別大特価」にはどうやら隔たりがあったようです。この隔たりも「特別大特価」という言葉が、人によって様々に考えられるし、どこまで安くすれば、「特別大特価」なのか明確に決まったいないことによって起きています。

このように、連続性の誤謬は、概念の定義に1つに定まらない曖昧なものを含むためその概念に含まれないことまで意味してしまうことです。
連続性の誤謬に気付かないと、「砂山は砂山なのだ」という哲学的な、禅問答的な境地へ入ったり、禿ている人または禿を恐れている人への希望になったりします。また、特別大特価なら「買わなきゃ損」と思って、無駄遣いをすることもあるかもしれません。
連続性の誤謬に陥らないためには、明確な線引きができなくとも言葉が持つ曖昧さに注意を払い、最低限この限界を超えたら、もうその言葉は使えないと意識したり宣言する必要があります。

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5 証明責任に関する誤り

議論をする上で重要になるのが、証明責任が自分と相手とどちらにあるかです。
証明責任があると、ある結論が正しいことを証明しなければなりません。基本的には、ある主張をしようとする人が、その主張が正しいことを証明しなければなりません。主張が正しいことを論証できないと、その主張は受け入れられないことになります。

本来、証明責任が自分にあるのに、相手が証明しなければならないように思わせることは、誤謬や詭弁になります。この証明責任に関する誤りを見て行くこととします。

14.未知論証
15.悪魔の証明
16.隙間の神

未知論証は誤った二分法にも通じる誤謬です。証明責任を果たさずに結論を導く誤謬です。(11.14)を見てください。

(11.14)未知論証
<前提> 幽霊が存在しないと証明されていない

[結論] よって、幽霊は存在する

まず、「幽霊は存在する」ということを主張する人が証明責任を負います。(11.14)では、証明責任を何ら具体的に果たしていません。そして、この主張が正しくなるためには、隠れた前提として「存在しないことが証明されていなければ、存在する」というコトがあることになります。

(11.14)未知論証
<前提> 幽霊が存在しないと証明されていない
<隠れた前提> 存在しないことが証明されていなければ、存在する
[結論] よって、幽霊は存在する

「存在しないことが証明されていなければ、存在する」という隠れた前提の下に、前提「幽霊が存在しないと証明されていない」を使って、「幽霊は存在する」と結論を導いてます。しかし、「存在しないことが証明されていなければ、存在する」という隠れた前提は、誤った二分法です。

「証明」について、「証明されている」と「証明されていない」に二分すること自体は分かります。「証明は、されているか、されていないかのいずれか一方である」と言えます。

証明は、されているか、されていないかのいずれか一方である


「存在」についても、「存在する」と「存在しない」に二分すること自体は分かります。「存在は、するか、しないかのいずれか一方である」と言えます。

証明は、されているか、されていないかのいずれか一方である
存在は、するか、しないかのいずれか一方である


つまり、「存在」と「証明」の組み合わせてとしては4通りあります。

「存在はするし、それは証明されている」
「存在はするが、それは証明されていない」
「存在はしないし、それは証明されている」
「存在はしないが、それは証明されていない」

この4通りの場合が考えられるのに、「存在しないことが証明されていなければ、存在する」という隠れた前提は、「存在はしないが、証明されている」場合を勝手に除外していることを意味します。



したがって、「存在はしないし、それは証明されている」ことが否定されると、自動的に「存在はするし、証明されている」か「存在はするが、証明されていない」に絞られます。だとすると、「証明されている」としても、「証明されていない」としても、いずれにしろ「存在はする」ことになります。ですから、結論「幽霊は存在する」が、正しくなってしまいます。



「存在はしないが、証明されている」ことが否定されているときに、あり得る可能性は、
「存在はするし、それは証明されている」
「存在はするが、それは証明されていない」
「存在はしないが、それは証明されていない」
の3通りです。したがって、「存在しないことが証明されている」ことを否定した場合には、「存在する」か「存在しない」かは分からないことになります。

このように、未知論証は、「証明されていない」ことを以って、ある主張が正しいとすることです。これでは証明責任を果たしたことになりません。何かを主張する場合には、主張する人が、その主張に証拠があり正しいことを証明する責任があります。結論ありきで考えていると、未知論証をしてしまい誤謬に陥りやすいです。

相手が未知論証を使って来たら、「証明されていない」のなら、存在するか、存在しないかは分からないことを指摘し、同時に、それは議論で禁じ手の証明責任の転嫁をしていることを指摘しましょう。


そして、証明責任は主張する人が持つというルールは、「存在しない」ことを「証明する」のは非常に困難なことから生まれました。

「何かがない」ことの証明は、一般に悪魔の証明と言われています。
「何かがある」ことの証明は、簡単です。実際に「何かがある」ことの例を1つでも挙げれば、それで終わりです。しかし、「何かがない」ことは、どうやって証明すればいいでしょうか。証明する場合は、証拠を集めることから始めるのでしたが、「何かがない」ことを集めるのはちょっと難しいです。何せ「ない」のだから、「ない」こと自体を集めることはできません。つまり、「ない」ことを観察するのが難しいわけです。

そこで、間接的に「何かがない」ことを観察することになります。つまり、「何か」が「1回も観察されなかった」ことを以って、「何かがない」ことを証明することとします。しかし、「何かがある」場合が1つの事例で済んだのに対して、「何かがない」ことはあらゆる場合、すべての場合を調べなければなりません。

なぜなら、1つでも「何かがある」ことが観察されてしまうと、「何かがない」ことの証明はできていないことになるからです。1万回調べて「何かがない」としても、1万と1回目で「何かがある」ことが観察される可能性はあります。これは、帰納法で何度も出て来た問題点と似ています。現実問題として、すべてのありとあらゆる場合を調べるのは不可能でした。実際、科学でも今までは「ない」と思われていたことも、新しい発見によって理論が修正されてきています。「ない」と思っていても単に見つかっていないだけかもしれません。

だとすると、どこまで調べても「何かがない」ことを証明することは、現実的に非常に難しいことが分かります。ですから、証明が事実上不可能または、証明ができたとしても計り知れない程の時間と労力がかかるため、悪魔の証明と呼ばれるのです。

具体的な話にすると、刑事裁判でも「疑わしきは罰せず」という原則があります。この原則は、「疑わしきは被告人の利益に」や推定無罪とも言われます。何かの罪で訴えられている被告人がいるとします。判決が出て刑が確定するまでは犯罪者ではないですよ。被告人は訴えられて裁判にかかっている人です。まだ犯罪者かどうかは分かりません。

(11.15)悪魔の証明と推定無罪
検察側が有罪の証拠を出す
被告人は検察の証拠が正しくないことを主張

さて、被告人は自分の無実を証明したいのですが、如何せん「犯罪をやっていない」ことの証明は難しいです。直接「やっていない」ことは証明が難しいため、間接的に証明することになります。その日のこの時間はどこどこにいて〜、と犯罪ができる状況ではないので、「犯罪はやっていない」ことを主張して無実を証明することになります。

しかし、「犯罪をやっていない」こと自体を直接証明していないので、「犯罪をやった」可能性は捨てきれません。その犯行ができないように見えても、何か見落としており、その事実が出てくれば、「犯罪をやっていない」ことの証明は、崩れることになる可能性が常にあるのです。

これって、無実を訴える被告人からしたら堪ったもんじゃありません。どんなに「犯罪をやっていない」ことを証明しようとしても、完全には証明できないわけですから、本当にやっていなくても確実に有罪になってしまいます。

そこで裁判では、「疑わしきは罰せず」の原則です。「犯罪をやった」と「疑わしい」だけなら、「刑罰を与えない」という原則です。この原則があれば、「犯罪をやっていない」ことを完全に証明できなくても、無実を勝ち取ることができるかもしれません。

では、被告人にの罪に問おうとする検察側はどうすればいいでしょうか。

検察側は、被告人が「犯罪をやった」という決定的な証拠を出していくことになります。検察側に「犯罪をやった」ことの証明責任が課されることになります。検察側に証明責任があるというコトは、検察側が「犯罪をやった」ことを証明しない限り、検察側の主張である有罪が受け入れられないモノになります。

そうすると、被告人に「犯罪をやっていない」ことの直接の証明責任は、なくなります。被告人は、検察側の証拠では「犯罪をやった」ことにならないと主張して、その証拠を否定していけばよくなります。検察側が証明責任を果たせていないことを主張していけばいいということです。

それを踏まえて裁判官が無罪か有罪かを判断します。このとき「疑わしきは罰せず」の原則があるので、積極的に「犯罪をやった」と肯定できなければ、無罪です。刑罰という重い負荷と被告人の人権も考慮して、「疑わしい」だけでは、「犯罪をやった」とは完全に言えないので、無罪とするわけです。

ただし、無罪になっても、「犯罪をやっていない」とまで言えるかは微妙です。「犯罪をやったことの証明」の否定は、「『犯罪をやったことの証明』がされていない」だけなので、事実上不可能な「犯罪はやっていないことの証明」は除いて、
本当に「犯罪はやっておらず」、ただ「その証明がされていない」、のかもしれないし
実は「犯罪はやった」が、「その証明がされていない」だけかもしれないし、
わけです。
ここで「無実」=「犯罪はやっていない」ことと考えると、未知論証と同じ過ちを犯していることになりますので気を付けてください。



まぁ、とは言え、「疑わしきは罰せず」の原則は守られていないこともしばしばあります。
最近では、痴漢冤罪が有名ですね。やっていないことの証明責任をなぜか被告人の方に課すという謎のことが起きています。かなりバッシングされたので改善されて来たとはいえ、まだまだ危険があります。無実になっても、それはほとんど報道されない上に、被告人の段階で新聞やニュースで氏名が出るので、社会的に死んでしまうんで困ったもんです。

以上のように、悪魔の証明は、「ない」ことの証明の困難性を表します。ですから証明責任は「ある」ことを主張する人がその証拠を出さなければならないわけです。
もし「ある」ことの証明ができなければ、それは「ある」かもしれないし、「ない」かもしれない 。どっちか分からないので、主張としては価値のないものになります。

未知論証、悪魔の証明といった、証明がされていない場合や証明が困難な場合に陥りやすい誤謬を見てきましたが、補足的に、隙間すきまの神というものを紹介しておきます。初めて隙間の神という用語を知ったとき独りで大笑いしてしまったのですが、用語は別としても皆も一度は出会った論証方法の誤謬だと思います。

科学がこれだけ発達した現代においても、未だ解っていない事象は数多くあります。こうした未解明の事象は、なぜ存在するのか、発生するのか、といった説明が未だされていません。また、通常では考えられない奇跡のような出来事も起きたりします。こうした論理的には証明できないものを何とか説明しようとしたときに、「神の仕業としか思えない」と理由付けする人が偶にいます。

(11.16)隙間の神
このような不可思議な事が起きるのは、神の仕業に違いない

このように、論理の隙間に入って来て、証拠として扱うものを隙間の神と言います。「神」の存在自体が論理的にを証明されているわけではないので、「神」が存在するかしないかは分かりません。そんな「神」を用いた「神の仕業」を証拠に挙げても論理的主張にはなりません。もちろん、宗教的な「神」を信じるのは別に構いはしませんが、論理的思考が主となる議論では意味のないものになります。

17.論点回避
論点先取
循環論証

一見すると推論方法も正しく根拠結論をそなえた主張のために、正しい論証に思えるが、巧妙に論点を避けており、証明責任をまっとうしていない場合があります。証明しなければならないこと、つまり、論じられるべき点である論点を避けるので、論点回避と言われます。

論理学では、結論を支えているはずの前提が証明されていないにもかかわらず、真と仮定してしまえば、必然的に正しい結論を推論することは可能でした。これを無意識にしろ意図的にしろ利用してしまうと、前提が正しいことを証明せずに結論を主張することになるので、論点を回避しています。

そして、証明することなく前提を真と予め仮定して、結論を導くことは、論点先取と言われます。論点なのに、証明せずに先ず真として取り扱っているので誤謬です。

また、前提から結論を正しく推論して導いているが、その前提の正しいことを証明するのに結論が必要になる場合もあります。これは結論前提の間をグルグルと循環することになるので、循環論証または循環論法と言われます。
「A である、なぜならばB だからだ」、「なぜB なのかと言えば、A だからだ」と言うような形です。A が正しいと言えるためには、B が正しくなければなりません。だからB が正しいことを証明しなければならないのですが、その際に、A が正しいことを使って、B が正しいことを証明しようとしています。
でもA が正しいか否かは、B の正しさに依存しています。これでは、A が正しいと言うには、B の正しさを証明することが必要で、その B の正しさを証明するには、A の正しさを証明することが必要で、その A の正しさを証明するためには、B の正しさを証明することが必要で、…
際限なくグルグルと結論前提を回ることになり、結局正しいのかどうか分かりませんので、余り価値のない主張になってしまいます。

論点先取と循環論法は同時に使われることが多いです。(11.17)を見てください

(11.17)論点先取と循環論法
<前提> 太郎は正直者だ

[結論] よって、太郎は本当のことを言っている

議論の相手方と共通した見解がない限り、前提「太郎は正直者だ」ということから、結論「太郎は本当のことを言っている」を導くと、循環論証になります。

「正直者 ⇒ 本当のことを言っている」という命題は、私達の日常の感覚からも正しいと言えます。でも、前提「太郎は正直者だ」と言うには、証明が必要です。「太郎は正直者だ」という前提が真だと言えるか分からないからです。

では、「太郎が正直者だ」ということを証明するにはどうすればよいでしょうか。「太郎が正直者だ」と言うためには、「太郎が本当のことを言っている」ことを証明すればいいです。そうすれば、嘘をつかずに「本当のことを言っている」ならば、「太郎は正直者だ」と言ってもいいと判断できます。

そうすると、気付きます。これは循環論証だと。結論が正しいことを証明するのに、前提が正しいことが必要ですが、その前提が正しいことを証明するためには、結論が正しいことが必要になっています。

(11.17)論点先取と循環論法
<前提> 太郎は正直者だ
 ↑↓ 循環論証
[結論] よって、太郎は本当のことを言っている

これでは、主張の一番言いたいことである結論「太郎は本当のことを言っている」に対する証明責任が果たせません。したがって、この主張は、信じるか、信じないかの問題であり、論理的には受け入れられないものになってしまいます。

ですから、「太郎は本当のことを言っている」という結論を主張するのならば、前提に「太郎は正直者だ」という循環論証となるものを置かずに、直接的な証拠を置くべきです。つまり、「太郎が言っている」内容を証明する証拠を提示して、「太郎が本当のことを言っている」ことを主張すべきです。例えば、「太郎が言っているものはここにある。だから、太郎は本当のことを言っている」とすべきです。

そして、(11.17)は循環論証を避けるために、証明なしに前提「太郎は正直者だ」を正しいと仮定してみます。そうすれば、「正直者 ⇒ 本当のことを言っている」という命題は真と判断できるので、結論「太郎は本当のことを言っている」と言えます。しかし、これでは、特に何も主張していないのと変わらなくなります。「正直者」と「本当のことを言っている」ことは、同じことを言っているに過ぎないからです。

そもそも「正直者」を証明する場合、「本当のことを言っている」ことで証明しました。つまり、「本当のことを言っている ⇒ 正直者」ということになります。すると、「正直者 ⇒ 本当のことを言っている」でもあるので、「正直者 ⇔ 本当のことを言っている」ということになります。つまり、「正直者」と「本当のことを言っている」とは同値です。

同義反復
本当のことを言っている ⇒ 正直者
正直者 ⇒ 本当のことを言っている
∴正直者 ⇔ 本当のことを言っている

表現が異なるだけで、同じ内容を繰り返し述べているということです。いわゆる同義反復です。

だとすると、「太郎は正直者だ」というコトから、当然に「太郎は本当のことを言っている」ことが導かれます。同じ内容を表現を変えているだけだからです。それゆえに、最初に前提「太郎は正直者だ」を正しいと仮定してしまっては、これでは何も証明したことにはなりません。結論「太郎は本当のことを言っている」を主張するために、同義反復をした前提「太郎は正直者だ」を持ってきて論理的な主張の体裁を整えているだけです。

これは、論点先取と言えます。主張の結論部分が正しいことを証明するためには、前提部分が正しいことが必要であり証明する必要があります。しかし、前提部分を正しいと最初に仮定することで、論点回避をしています。さらに、結論部分を同義反復した前提部分を真と仮定しているので、論点を先取りしています。

このように論点先取と循環論証は同時に陥りやすい誤謬と言えます。

以上見たように、論理的主張では前提から結論を導いていくもので、結論の正しさを証明するためには、前提の正しさが重要な要素になります。
したがって、前提の正しさを証明するために、さらにそのために前提を置いて証明することになります。
このようにして、前提(1)から結論(1)を導き、その結論(1)が新しい前提(2)となり、新しい結論(2)を導き、…と繰り返していくことになります。要するに、前提結論の連鎖と言えます。

前提(1) → 結論(1)
        ||
       前提(2) → 結論(2)

そうすると、どこまでも前提を遡って行くことになるのですが、どこかで証明不能な前提にぶち当たることになります。そこでは、同義反復である論点先取や、結論根拠の両方が互いの前提となる循環論証になっていることがあります。しかし、これは仕方ないことです。世の中のすべてが解明されているわけでもありません。「そういうもの」だとして受け入れざるを得ないものも当然に出て来るわけです。ですから、循環論証のようになっても、即座に意味のない命題というコトにはなりません。

数学という論理的に明晰で判明であり、何でも完全に証明できると思える学問ですら、前提を遡って突き詰めていくと、最初に論点先取や循環論証になっている前提にいきつき、証明不可能なものを正しいと仮定していることになります。しかしながら、証明不可能なもの真と仮定した前提から論証が展開しているのだからといって、数学は無意味で無価値とは言えません。現に私達の物質的に豊かな社会は、根本において証明不可能なものから始めている数学によって支えられています。

また、人権や道徳だって突き詰めいていくと、循環論証に陥ることになります。だから無駄だ、無価値としては、社会の秩序は崩れ、安全な生活は脅かされることになります。人権や道徳は証明不可能だからといって簡単に捨て去ることはできません。

こんな数学や人権だといった高尚な話まで持ち出さなくても、国語辞典で語句の意味を調べようとしたときに、これと同じ経験をしていうるはずです。「正しい」を調べると、「道理にかなっている」と定義されています。ふむ、それでは「道理」とは何なのか、と思うわけです。分からないので、「道理」を調べます。すると、「物事の正しい筋道」と定義されています。「正しい」の意味が知りたいのに、「正しい」の意味が分からないと、「正しい」が理解できないということになります。でも、「正しい」という言葉は確かにあり、意味のない無価値な言葉ではありません。

このように物事の正しさを突き詰めると、どこかで証明不可能で論点先取や循環論証となるものに出くわします。でも、それ自体は、無意味で無価値ではありません。

論点先取や循環論証が誤謬と言われるのは、証明可能なはずなのに証明責任を果たしていなかったり、多くの人が納得できるものではないのに、さも正しいものとして証明せずに使う場合に指摘されるときと言えます。

たまに「それって何故?」や「それは何を意味するのか?」とやたら滅多に問い続けて、相手の論証が崩壊するように仕向けて、議論に強いと自称する人がいますが、やめましょう。「何故?」や「何?」を無駄に連発すれば、論証が崩壊するのは当たり前です。議論に強いとかいう以前の問題です。論点を明確にしたり、隠れた前提を明らかにしたり、論理の甘さを明確にするような意味があれば良いのですが、意地の悪く「何故?」や「何?」を連発して分かり切っていることを尋ねることは、議論を台無しにしていしまいます。

相手がもしこの手を使って来て、前提を遡り過ぎて、循環論証等になったり、実際にそうなってしまったら、
「無限後退によって論証を崩壊させようとしているのか?」と聞いて、相手の意図は見抜いていることを伝えて牽制し、
それでも足りないようなら、「どこかで循環論証になっても、ここまで来ると、物事の性質上仕方ない」と開き直ると良いでしょう。
そして、「有益な議論をして、考えを深めたいのであって、議論を無意味にしたいわけではない」と釘を刺します。
他にも、「論点に関係ないことは質問するな」と牽制しておくといいでしょう。
それでも相手が無意味に「何故?」や「何?」を使って来たら強弁と変わらないので諦めましょう。

18.充填された語

これも論点回避に通じるものですが、論理と言うよりも表現に深く関係するものです。
人間の特性または習性として、感情に動かされやすいというコトが挙げられます。この感情に流されるという特性ゆえに起きる誤謬が、充填じゅうてんされた語です。「充填」とは「物事を詰め込むこと」です。要は、論証の際に感情に大きく訴えかけるような表現が、充填された語です。感情が主張に詰め込まれています。さらに、感情的な語だけではなく、広く先入観を与えるような語も、充填された語と言えます。

(11.18)を見てください。

(11.18)充填された語
<前提> この考えは、浅はかで幼稚である

[結論] よって、この考えは、普通の人なら犯さない誤ったものである

この主張の仕方では、論理的ではないですが、論理的思考が苦手な人には、結構効きます。

まず、論理的ではない点から検討します。結論には、「普通の人なら犯さない」という表現があります。これは前提の「浅はか」で「幼稚」な「考え」であることから導かれています。

一番言いたいことは、「この考え」が「誤り」であることなので、余計な修飾表現を取っ払います。すると、「この考えは誤りである」となります。

(11.18)充填された語
<前提> この考えは、浅はかで幼稚である

[結論] よって、この考えは、普通の人なら犯さない誤ったものである
  →  この考えは誤りである

そして、結論「この考えは誤りである」を導く根拠として前提「この考えは浅はかで幼稚である」ことが挙げられています。前提の「浅はか」や「幼稚」といった言葉が入っていますが、この主張からは、「考え」がどういう点で「浅はか」で「幼稚」なのか、何故そう言えるのかが分かりません。だとすると、「この考え」はどういった類ものなのでしょうか。残念ながらこの主張からでは分かりません。つまり、前提が実質的には何も言っていないのと同じで、内容がないことになります。

(11.18)充填された語
<前提> この考えは、浅はか幼稚 である
  → 実質的に内容がない

[結論] よって、この考えは、普通の人なら犯さない誤ったものである
  →  この考えは誤りである

そうすると、この主張には、結論「この考えは誤りである」を導くための根拠がないことになります。これでは論理的主張とは言えません。

でも、この主張を聞いたときに、論理的思考が弱い人は納得してしまうかもしれません。それは、「浅はか」や「幼稚」、「普通の人なら犯さない」という充填された語が入っているからです。「浅はか」や「幼稚」という言葉からは、「知能が足りず」、「愚か」や「馬鹿」な印象を受けるからです。つまり、隠れた前提として、「浅はか」で「幼稚」な「この考えは、愚かである」というのがあります。論理的思考が弱くても、この「浅はか」や「幼稚」といった感情を刺激する言葉が意味することには気付いてしまいます。

(11.18)充填された語
<前提> この考えは、浅はか幼稚 である
  → 実質的に内容がない
<隠れた前提> この考えは、愚かである
[結論] よって、この考えは、普通の人なら犯さない誤ったものである
  →  この考えは誤りである

「普通の人なら犯さない」という表現も同様です。「この考えは誤り」であるだけでは刺激されないような感情に訴えてきます。「この考え」は、「普通の人なら犯さない」「誤ったもの」なのだから、「この誤りを犯す」ことは、「普通の人ではない」ことになります。

「普通の人」ではないといえば、「賢い人」と「愚かな人」が考えられるのですが、前提で「浅はか」で「幼稚」なという言葉に引っ張られて、「愚かな人」の方に意味をとります。そうすると、結局、結論でも暗に「この考えは愚か者の誤りである」ということを示していると気付きます。隠れた前提として、「この誤った考えを採用することは、愚か者の証である」といったものがあることになります。

(11.18)充填された語
<前提> この考えは、浅はか幼稚 である
  → 実質的に内容がない
<隠れた前提> この考えは、愚かである
[結論] よって、この考えは、普通の人なら犯さない誤ったものである
  →  この考えは誤りである
<隠れた前提> この誤った考えを採用することは、愚か者の証である

結論にも前提にも、隠れた前提として「愚かさ」があるために、「自分は愚かではない」と思いたい感情を刺激されて、論理的でない主張に納得してしまうことがあります。もし論理的思考ができていれば、論理の不備に気付けるので、充填された語に惑わされずにすみます。

(11.18)では、「愚か」という否定的な感情を呼び起こすものでしたが、肯定的な感情を呼び起こす場合もあります。例えば、「崇高な精神の下で」とすれば、何か分からないけど素晴らしい善いことを行おうとしているのではないか、といった気持ちになります。

ここまで充填された語の危険性と無意味さを述べてきましたが、使用自体はある程度は避けられません。言葉を使う限り、何かしらの色がついた表現は出てきます。そこで、充填された語が使うとき、または使われたら、次のことに気を付けてください。

充填された語がどういった内容なのかやその理由を具体的に問う。
(11.18)で言えば、「浅はか」で「幼稚」と言えるのはどうしてか、何故そう言えるのか尋ねることになります。「考え」の内容が「浅はか」で「幼稚」と言えるような理由付け本当にができれば、充填された語が使われていても、まだ良しとしましょう。

次に、結論前提の関係を問う。
(11.18)で見れば、前提結論を正しく支えていないので、論理的主張ではないことが明らかになります。

そして、充填された語を削除して、中立的で客観的な表現に直す。
(11.18)では、充填された語を省くと、前提は実質的な内容が無いです。結論は「この考えは誤りである」となります。

このように充填された語は、感情や先入観を与えるような語を用いることであり、論理的な主張でしばしば誤謬を引き起こします。

これは、政治家等がよく使うとされていますが、別にメディアでも学界でも使われますし、日常生活にも広くあります。そして、情報工作やプロパガンダ、つまり特定の思想や主義へ誘導したり感化させたりするための宣伝行為では、この充填された語が大活躍します。感情や先入観によって論理的な誤りを犯さないように気を付け、主張の内容をちゃんと吟味できるようになりましょう。

また、充填された語を効果的に用いると相手を説得するのに威力を発します。実際、アメリカの大統領選挙での演説は、充填された語が含まれています。もし充填された語を使うなら、やたら滅多に使うのではなく、主張を論理的に構成した上で、ここぞというところで使うようにするようにしましょう。

19.自然主義の誤謬
20.道徳主義の誤謬
21.伝統に訴える論証
22.新しさに訴える論証
23.権威に訴える論証
24.衆人に訴える論証
25.感情に訴える論証

証明責任を回避しているわけではないが、証明責任の果たし方が論理的とは言えない方法があります。どの誤謬も、根拠に正しい事実、正しいように見える事柄を持ってきているのですが、結論を支える上で論理的には重要な意味を持たないものです。

まず自然主義の誤謬から見ましょう。
自然主義の誤謬とは、あることが自然であることを前提にして、そのコトが望ましいと結論を導くコトです。または、あることが不自然であることを前提にして、そのコトが望ましくないと結論を導くコトです。

(11.19)を見てください。

(11.19)自然主義の誤謬
<前提> 酷いことをされたら相手を恨むのももっともだ

[結論] よって、相手は復讐されるべきだ

前提の「酷いことをされたら相手を恨むのももっともだ」は、確かに多くの人間は酷いことされたら恨みを抱くもので、自然な性質と言えます。しかし、この前提から、「相手は復讐されるべきだ」という結論を導くことは、論理的に飛躍しています。でも、論理的思考が弱いと、前提「酷いことをされたら相手を恨むのももっともだ」が自然なことなので、つい結論「相手は復讐すべきだ」も正しいものと無条件に受け入れてしまう可能性があります。

自然な性質だからといって、そうであるべきというコトにはなりません。このように、自然主義の誤謬は、自然なことであるが故に納得しやすい単なる事実を以って、「〜すべきだ」といった規範を導く誤謬です。論理的でないので、結論が必ずしも正しくなるとは限らなくなります。

論理構造をもう少し分析してみましょう。これが論理の形式として正しいと言うためには、隠れた前提として「恨みを与えれば、復讐されるべきだ」というコトが必要です。

(11.19)自然主義の誤謬
<前提> 酷いことをされたら相手を恨むのももっともだ
<隠れた前提> 恨みを与えれば、復讐されるべきだ
[結論] よって、相手は復讐されるべきだ

では、内容面を考えてみると、「恨みを与えれば、復讐されるべきだ」という隠れた前提は真と言えるでしょうか。もちろん恨みの程度と復讐内容にもよりますが、「恨みを与えれば、復讐されるべきだ」をそのまま真と言うコトは難しいです。実際、何か被害を受けたからと言って、個人的に復讐すれば、被害者であるはずの復讐した人が刑法で裁かれたりします。

とすると、復讐を行うことは、無条件に正しいとは言えないことが分かります。したがって、隠れた前提「恨みを与えれば、復讐されるべきだ」は証明なしには使えないのに、(11.19)の主張では証明なしに使われていることになります。よって、論理的主張とは言えないことが分かります。

恨みがあるからと言って復讐をしてもよいことになれば、復讐された方も新たに恨みを抱くので、繰り返し互いに復讐し合うことになります。だとすると、解決策は、恨みが消えるようにすることになりますが、それは、相手を許すか、相手の殲滅になってしまいます。これは中々まずい結果になりやすいです。結論として正しいと賛成できる人は少ないのではないでしょうか。

自然主義の誤謬に陥らないためにも、事実から規範をすぐに導くのではなく、つまり、「そうであるから、かくあるべし」と短絡的に考えるのではなく、きちんと論理構造を把握するようにしましょう。

事実から規範を導く自然主義の誤謬と似ているもので、規範から事実を導くのが道徳主義の誤謬です。「そうあるべきだから、かくある」ということになります。(11.20)を見てください

(11.20)道徳主義の誤謬
<前提> 男女は、平等な機会を受けるべきだ

[結論] よって、男女は、すべてのことについて等しい能力を持つ

前提の「男女は、平等な機会を受けるべきだ」は、先進国であり、自由と民主主義を重視する我々の社会では、当然のことでそうあるべき規範だと言えます。しかし、この前提から、「男女は、すべてのことについて等しい能力を持つ」という結論を導くことは、論理的に飛躍しています。

でも、論理的思考が弱いと、前提「男女は、平等な機会を受けるべきだ」が道徳的に正しく規範として共有されていることなので、つい結論「男女は、すべてのことについて等しい能力を持つ」も正しいものと無条件に受け入れてしまう可能性があります。

規範的に正しいコトだからといって、そうであるというコトにはなりません。このように、道徳主義の誤謬は、道徳的に正しいコトであるが故に納得しやすい規範を以って、「〜である」といった事実を導く誤謬です。論理的でないので、結論が必ずしも正しくなるとは限らなくなります。

論理構造をもう少し分析してみましょう。これが論理の形式として正しいと言うためには、隠れた前提として「平等な機会を受けるならば、すべての能力も等しい」というコトが必要です。

(11.20)道徳主義の誤謬
<前提> 男女は、平等な機会を受けるべきだ
<隠れた前提> 平等な機会を受けるならば、すべての能力も等しい
[結論] よって、男女は、すべてのことについて等しい能力を持つ

では、内容面を考えてみると、「平等な機会を受けるならば、すべての能力も等しい」という隠れた前提は真と言えるでしょうか。
現実問題として、平等な機会を受けても能力は異なります。「平等な機会を受けるならば、すべての能力も等しい」をそのまま真と言うコトは難しいです。例えば、男女の身体的な特徴は異なります。一般的な傾向として、男性の方が体力もありますし身体的な能力は高いです。しかし、女性は出産することができます。これは顕著な例ですが、細かい所を見て行くと、すべての能力が等しいというのは有り得ません。
したがって、隠れた前提「平等な機会を受けるならば、すべての能力も等しい」は証明なしには使えないのに、(11.20)の主張では証明なしに使われていることになります。
よって、論理的主張とは言えないことが分かります。

事実がもっと捻じ曲げられると、(11.20)で言えば、男女の性差まで否定してしまうこともあります。「男女は平等であるはずなのに、能力の違いがあるのはおかしい」と考えて「性差はない」ちまで主張する場合がそうです。
もしこれを正しいものとして受け入れて、社会制度を変えていくとなると、能力の違いを考えず一律に平等に扱うことになります。これでは、平等という名の下に払う犠牲が大きくなるかと思われます。
本来なら、そういう性差に関係なく平等に能力を発揮できるように制度変更すべきところを、道徳主義の誤謬によって、絶対に動かせない事実を否定してしまっているがために起きます。

このように、道徳主義の誤謬とは、ある規範を前提にして、特定の事実を結論を導くコトです。規範が正しいが故に、つい事実まで捻じ曲げてしまうコトはしばしばあります。論理的思考をして、規範と事実をしっかりと区別しなければなりません。

なお、規範から事実を短絡的に導くのがいけないのであって、規範から事実を導くこと自体が悪いのではないことに注意してください。論理的な主張が構成されていればいいわけです。

また、規範から規範を導くのは、道徳や倫理に関する話題のときは当然に許容されます。例えば、「男女は平等な機会を受けるべきだ」という規範を前提にして、「男女の不平等な扱いを是正すべきだ」という規範の結論は、論理的と言えます。

続いて、伝統に訴える論証です。
伝統に訴える論証とは、過去や現在の伝統を前提にして、結論が正しいと推論するコトです。常識や慣習も伝統に含まれます。これは簡単ですね。「昔からそうなのだから、正しいに決まっている」といった類のものです。(11.21)を見てください。

(11.21)伝統に訴える論証
<前提> 人類は数千年の間神を信じ続けていた


[結論] よって、神は絶対に存在する

神の存在証明が、数千年間信じられていたことになっています。しかし、信じられているから存在するとは言えません。信じられているからではなく、神が存在することは何かしらの事実を以って証明しないといけません。

(11.21)の論理構造を明らかにしてみます。
「人類は数千年の間髪を信じ続けていた」という前提から、「神は存在する」という結論を導くためには、隠れた前提として「長年信じられていたならば、存在する」という命題があります。また、そもそも信仰が開始した時には、神が存在することが正しくなければなりません。「信じれ始めたとき、存在が証明されていた」という命題が隠れた前提としてあります。

(11.21)伝統に訴える論証
<前提> 人類は数千年の間神を信じ続けていた
<隠れた前提1> 長年信じられていたならば、存在する
<隠れた前提2> 信じれ始めたとき、存在が証明されていた
[結論] よって、神は絶対に存在する

2つの隠れた前提が正しくないと、(11.21)は正しい論証とは言えないことが分かります。

したがって、伝統に訴える論証が正しいと言うためには、
伝統が導入された当時に、正しいことが証明されていること、
過去においては伝統が正しかったと言える根拠が現在も有効であること、
の2つを検討する必要があります。

この2つの条件を満たしていれば、伝統に訴える論証も誤謬とは言えなくなります。もし導入時に正しいことが証明されていなければ、伝統だからと言っても必ずしも正しいことにはなりません。また、もし状況が変わっていれば、正しいとされる根拠が通用しなくなっているかもしれないので、伝統でも必ずしも正しくなるとは限りません。

そして、伝統に訴える論証が常に正しいとすると、変革はすべて誤りになります。有り得ませんね。世界は常に変化しているので、伝統だからと言って正しく今も通用するとは限りません。

先例主義も伝統に訴える論証と似たモノと言えます。先例主義とは、過去に同じ様な事例があり、それを一種の規範として踏襲していくことです。現代でも、公務員の政策などは先例主義と批判されます。過去にこうだったから今回も以前と同じ方法で対処すると言って、新しいことを中々しようとしないと。江戸時代も平安時代も先例主義が重視されました。昔から続いているので、これを変更することはできないと。

先例主義も権威論証と同じで必ずしも正しいとは限りませんが、間違っているとも限りません。先例が長く積み重なると、慣例となりそれが一種の法になります。批判されやすい先例主義ですが、新しいコトをすることでヘマをしない確率が高いという点では良い面があるとも言えます。新しいことも必ずしも良いこととは限らないので、利益と不利益をよく考慮しないといけません。

この新しいことが必ずしも正しいとは限らないことに関した誤謬が、新しさに訴える論証です。
つまり、新しさに訴える論証とは、新しさや現代的なことを前提にして、結論が正しいと推論するコトです。「新しいことは良いことだ」といった類のものです。(11.22)を見てください。

(11.22)新しさに訴える論証
<前提> 今の制度はもう時代遅れだ


[結論] よって、改革してこの新しい制度とすべきだ

この主張では、前提の「今の制度が時代遅れ」であることが正しいと証明されていません。なお、前提の「時代遅れ」という言葉と、それに関係する結論の「新しい制度とすべき」という言葉から、隠れた前提として「時代遅れの制度には問題がある」ことと「新しい制度にすれば、その問題点が解決できる」ということが読み取れます。

(11.22)新しさに訴える論証
<前提> 今の制度はもう時代遅れだ
<隠れた前提1> 時代遅れの制度には問題がある
<隠れた前提2> 新しい制度にすれば、その問題点が解決できる
[結論] よって、改革してこの新しい制度とすべきだ

2つの隠れた前提が正しいことが証明されないと、この主張が論理的であり、結論が正しいとは言えません。

しかし、現代では、資本主義の浸透や科学の発展も相まって、古い物に比べて、新しい物は、改善されており、便利になっており、効率的なっており、と良いことであるという印象があり、そのように受け止められることが多いです。したがって、「新しい」という言葉がつくと、つい無意識に「良いこと」だと考えてしまい、論理的な正しさをよく考えずに飛びついてしまうコトが、少なくありません。

実際、新しいモノに変える費用や、それに伴う新たな問題点が発生し、それが引き起こす費用を考えると、古い物を使っていても何の問題もないことはしばしばあります。例えば、携帯電話で新しいモデルが出る度に買い替えたりする人がいますが、多くの場合、その金額と進歩の具合を冷静に勘案したら「新しいことは良いことだ」と言えるのか分かりません。

ですから、「新しいことは良いことだ」と言うのならば、
新しいモノが古いモノよりも良い結果をもたらすことが、証明されていること、
古いモノが正しいと言える根拠が現在では有効ではないこと、
の2つを検討する必要があります。

この2つの条件を満たしていれば、新しさに訴える論証も誤謬とは言えなくなります。もし新しいモノが古いモノよりも良い結果をもたらすことが証明されていなければ、新しいからと言っても必ずしも正しいことにはなりません。また、もし状況が変わっていなければ、別に古いモノが正しいと言える根拠は変わっていないので、古いモノを否定することができません。

そして、新しさに訴える論証が常に正しいとすると、先例はすべて誤りになります。有り得ませんね。世界は常に変化しているとは言え、古いモノがいつも時代遅れの遺物で、新しいモノがいつもより良いものだということは有り得ません。

このように、伝統に訴える論証と新しさに訴える論証は表裏の関係です。伝統に訴える論証では、先例主義が誤謬を犯しているように見えましたが、新しさに訴える論証では改革主義が誤謬を犯しているように見えます。

先例主義は、現状維持の失敗を怖れ、何か問題が起きても放置し、合理的でもなんでもない間違ったモノで、改革をすれば、物事は好転する、問題は解決する、という「新しさ」の正しさについて信念があると、新しさに訴える論証に陥りやすいです。特に、先例の中に、ちょっとでも自分にとって都合が悪い所に目が行くと、すぐに自分にとって都合の良いモノを持ってきて、さらにはそれを「新しい」という言葉で包んで、「新しいことは良いことだ」と考えてしまうコトは少なくありません。古臭く見える先例だって、その当時はそれなりの理由があってできたモノである可能性だって十分にあるわけです。

こうした誤謬に陥らないためにも、ちゃんと論理的に考えて結論根拠前提を構成しないといけません。

続いて、権威に訴える論証です。
権威に訴える論証とは、権威ある人の発言などを前提にして、結論が正しいと推論するコトです。これも簡単ですね。「偉い人が言っているのだから、正しいに決まっている」といった類のものです。(11.23)を見てください。

(11.23)権威に訴える論証
<前提> 専門家の T 大学教授がこの技術は安全だと言っていた

[結論] よって、この技術は安全だ

大学教授が言っているからというだけでは、論理的に主張したことにはなりません。したがって、結論が正しいかどうかは分からないことになります。

(11.23)の論理構造を明らかにしてみます。「専門家の T 大学教授がこの技術は安全だと言っていた」という前提から、「この技術は安全だ」という結論を導くためには、隠れた前提として「専門家の言うことは、常に正しい」という命題があります。

(11.23)権威に訴える論証
<前提> 専門家の T 大学教授がこの技術は安全だと言っていた
<隠れた前提> 専門家の言うことは、正しい
[結論] よって、この技術は安全だ

この隠れた前提が正しくないと、(11.23)は正しい論証とは言えないことが分かります。確かに、専門家なら正しい知識を基にして、正しく推論している確率は高いですが、しかし、当然ながら、専門家でも間違うコトはあります。結論の「この技術が安全」であることを証明するためには、事故率の低さや事故が起きた際の対処がし易いと言えるような前提を持って来ないといけません。

この権威に訴える論証では、専門家の他には、有名人や地位の高い人が言ったからという場合も含まれます。無論、そうした人が言っていたから、というだけでは、証明にはなりません。つまり、お偉いさんの言葉を引用するだけでは、論理的な主張にはなりません。ですから、前提結論が論理的であることが第一にあって、お偉いさん言葉の添え物的なものにしかなりません。お偉いさんの言葉の引用は、自分の論理的な主張に対して、権威付けして説得力を高めることができたとしても、その論理的な正しさまでも直接に補強するものではないということです。

と言っても、私自身も権威には弱いです。専門書等を読む際には、著者の経歴を見ます。学術研究で日本の双璧をなす東京大学や京都大学出身の人の方が、そうではない人よりもしっかりとした内容である確率が高い気がするからです。でも、どの本を読むかといった最初の入り口ではこうした権威を頼りにしたとしても、内容を理解し批判するときには、権威を可能な限り忘れ去り、内容の論理性のみ集中するようにしています。

これは議論するときも同じです。いざ議論が始まれば、相手の学歴や地位は関係ありませんので、先入観のないようにしましょう。相手の主張の論理性のみが重要です。

続いて、衆人に訴える論証です。
衆人に訴える論証とは、多くの人がやっていたり信じていたりすることを前提にして、結論が正しいと推論するコトです。「皆がそう思っているのだから、正しいに決まっている」といった類のものです。(11.24)を見てください。

(11.24)衆人に訴える論証
<前提> M 社のハンバーガーは世界で最も多くの人に食べられている

[結論] よって、M 社のハンバーガーが世界で一番おいしい料理だ

M 社がどこの会社かは分かりませんが、某経済大国の世界展開をしているハンバーガー屋で、あのM 社だとしたら、この主張には断固として反対したくなります。

そこで、(11.24)の論理構造を明らかにしてみます。「M 社のハンバーガーは世界で最も多くの人に食べられている」という前提から、「M 社のハンバーガーが世界で一番おいしい料理だ」という結論を導くためには、隠れた前提として「一番多くの人に食べられている料理が、一番おいしい」という命題があります。

(11.24)衆人に訴える論証
<前提> M 社のハンバーガーは世界で最も多くの人に食べられている
<隠れた前提> 一番多くの人に食べられている料理が、一番おいしい
[結論] よって、M 社のハンバーガーが世界で一番おいしい料理だ

この隠れた前提が正しくないと、(11.24)は正しい論証とは言えないことが分かります。しかし、隠れた前提「一番多くの人に食べられている料理が、一番おいしい」は正しくないのはすぐに分かります。食べられる理由には、「おいしさ」の他に、「安さ」や「速さ」等といった要因も考えられます。こうした要因が合わさって、何を食べるか決められています。したがって、「一番多くの人に食べられている料理」だとしても、「一番おいしい」とは限らないことが分かります。

このように、衆人に訴える論証は、多くの人がしているのだから、正しいと短絡的に考えることです。帰納法を無暗に拡大して使っているとも言えます。多くの人があることをやっているというコトが事実だとしても、それから何かを導くには、論理的でないといけません。

続いて、感情に訴える論証です。
感情に訴える論証とは、感情的に良いこと、または感情的に悪いことを前提にして、結論が正しいと推論するコトです。感情に働きかけるという点では充填された語と似ていますが、充填された語が一種のノイズであったのに対して、こちらは前提に直接感情に関わる命題を持ってきている点で異なります。「気持ちの良いことなのだから、正しいに決まっている」といった類のものです。(11.26)を見てください。

(11.26)感情に訴える論証
<前提> アフリカの子供はお腹を空かしていて可哀そうだ

[結論] よって、食べ物は残さず食べなければならない

「飢餓に苦しむアフリカの子供」のことを考えて、「食べ物を粗末にすべきではない」というよく言われるモノです。小さい頃に誰しも1度は言われたかと思います。確かに、食べ物を粗末にしてならないというのは、私達の倫理観から言っても正しいことですし、何より飢えに苦しむ人のことを思うと、不自由なく食べられるコトのありがたさを感じずにはいられません。しかし、これは論理的な主張と言えるのでしょうか。

そこで、(11.26)の論理構造を明らかにしてみます。「アフリカの子供はお腹を空かしていて可哀そうだ」という前提から、「食べ物は残さず食べなければならない」という結論を導くためには、隠れた前提として「お腹を空いている人が可哀そうならば、自分は食べ物をすべて食べるべきだ」という命題があります。

(11.26)感情に訴える論証
<前提> アフリカの子供はお腹を空かしていて可哀そうだ
<隠れた前提> お腹を空いている人が可哀そうならば、自分は食べ物をすべて食べるべきだ
[結論] よって、食べ物は残さず食べなければならない

この隠れた前提が正しくないと、(11.26)は正しい論証とは言えないことが分かります。しかし、隠れた前提「お腹を空いている人が可哀そうならば、自分は食べ物をすべて食べるべきだ」は正しくないのはすぐに分かります。「お腹を空かしている人が可哀そう」だからと言って、「自分が食べ」ても、問題の解決にはなりませんし、意味がありません。お腹を空かしている人が食べてこそ現実的な意味があります。

このように、感情に訴える論証は、感情を呼び起こすことで、短絡的に何かしらの結論を導くことです。感情は私達の冷静な判断を誤らせることが多いです。前提に感情的に考えると正しい命題が来ると、それに引きずられて、結論を論理的に導いていないことを見落とす危険がありますので気をつて下さい。

私個人としては、やはり「食べ物は粗末にすべきではない」という命題自体は正しいと思います。しかし、それと論理的な主張であるかは別問題です。

なお、感情に訴える論証における典型的な感情は次のようなモノがあります。
否定的な感情としては、恐怖や不安、罪悪感、怒り、悲しみ、羞恥心、嫌悪感、同情といったモノがあります。
積極的な感情としては、安心感、希望、喜び、楽しさ、自尊心といったモノがあります。

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6 主題に関する誤り

主題に関する誤りに移ります。

26.論点のすり替え

論証自体は正しいが、本来の論点から外れているために、論点に答えた論証ではないという点で誤りになります。反論する際に、主題となる論点から外れると、議論が変な方向に飛んでいくことになりやすいです。そうなると、主題についての結論を出したいのに、それができなくなります。

(11.26)を見てください。

(11.26)論点のすり替え
太郎は自転車の二人乗りが見つかり叱られている
<前提> 二人乗りは次郎だってやってる
[結論] よって、自分だけ叱られるのは不公平だ

こうした主張は、よく聞きます。実際、私自身も詭弁と知りつつやることがあります。

こういう状況のとき、議論の主題は、「太郎の自転車の二人乗りをしたことに対する責任」です。つまり、「太郎」と「自転車の二人乗り」と「責任」の3つの要素が主題に関係しています。

論点:太郎・自転車の二人乗り・責任

しかし、前提の「二人乗りは次郎だってやっている」は、「二人乗り」と「責任」について述べている点では、主題に関係していますが、「太郎」とは関係のない「次郎」という人について述べている点で、主題から離れています。

論点:太郎・自転車の二人乗り・責任
  → 次郎 ・自転車の二人乗り・責任

したがって、結論の「自分だけ叱られるのは不公平だ」というのは、論点がズレた「責任」の回避の方法なので、議論では有効とは言えません。

仮にこの主張が有効とします。そうすると、話は、「次郎」についても「二人乗り」の「責任」を追及することに移っていくことになるかもしれません。つまり、論点が、「次郎の自転車の二人乗りをしたことに対する責任」や「太郎と次郎の自転車の二人乗りをしたことに対する責任」に移っていくことになります。

また、「太郎」だけが「責められる」ことに対する不公平な状況や制度にも話が展開していくもしれません。つまり、「不公平な状況や制度に対する問題点・改善点」に論点が移って行きます。

いずれにしろ、「太郎の自転車の二人乗りをしたことに対する責任」という主題から離れて議論が展開することになります。これでは、当初の主題について結論を出すことができなくなります。つまり、「太郎の自転車の二人乗りをしたことに対する責任」が有耶無耶になっていきます。まぁ、太郎からしたら目的達成かもしれませんが。

このように、論点のすり替えが起きると、本来結論を出したい主題から離れるコトになります。その結果、話を有耶無耶にしたり、何を話していたのか分からなくってきます。こうしたコトに陥らないためにも、常に主題を意識して離れないように心掛けなければなりません。

誤謬にしろ詭弁にしろ、相手が論点のすり替えを使ったら、「それは今は関係がなく、論点は〜だ」と注意するようにしましょう。

27.藁人形論証

相手の主張を捻じ曲げることで、相手の主張を論破したり、自分の主張の方がより説得的であるように見せかける場合もあります。このような論証方法をわら人形論証と言います。
藁人形と言えば、神社で丑の刻に五寸釘を刺して呪いをかけるのがすぐに思い浮かびますが、直接相手に復讐するのではなく、身代りに藁人形を使用しています。
藁人形論証も同じで、相手の主張を直接論破するのではなく、論破しやすいように捻じ曲げた主張を身代りにして論証しているという点で似ています。

(11.27)を見てください。

(11.27)藁人形論証
国会答弁
戦争前は、米100に対しまして麦は64%ぐらいのパーセンテージであります。
それが今は米一100に対して小麦は95、大麦は85ということになっております。
そうして日本の国民全体の、上から下と言っては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやっております。
これは完全な統制であります。
私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則にそったほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります。

新聞報道
貧乏人は麦を食え

これは、1950年の池田勇人大蔵大臣(現在の財務大臣)が国会で答弁した内容を、某新聞社が「貧乏人は麦を食え」と題にして批判的に報道したものです。かなり有名なので知っている人も多いかと思います。

背景知識がないと難しいかもしれませんが、戦中戦後の困難な食糧事情と経済事情のために、食糧管理法で国が色々と計画して制限したり価格を調整していました。国が米を買い上げて市場に流していました。買い上げた値段と同じ価格で市場に出すと、買い上げる人の人件費等がかかるので赤字になっていきます。つまり、国の借金となります。池田大臣はこの赤字を削減したかったので、米価を値上げしたかったわけです。そうした流れで、この答弁がなされました。

そのような中、某新聞社は、言葉尻を捉えて「貧乏人は麦を食え」と報道しました。これは、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食う」のうち、「所得の少ない人は麦を食う」という部分を抜き出して、「貧乏人は麦を食え」としています。しかも、「所得の少ない人」という箇所を「貧乏人」と充填された語に表現を改めています。また、「麦を多く食う」の部分も「麦を食え」と命令文にして、強権的で傲慢な雰囲気が読み取れるようにしています。これでは、池田大臣が、所得の少ない人のことなど考えておらず、「貧乏人は麦を食べてしかるべき」だと主張しているように思えます。

「貧乏人は麦を食え」では、池田大臣の「統制経済ではなく、所得によって米や麦の違いがある経済の原則に変えていきたい」という主張が伝わりません。本来なら、「所得に応じて食事を米と麦に」等といった要約にすべきなのに、藁人形論証によって、池田大臣の発言が、無神経で許されないような印象を与えるモノにされてしまっています。

こんなことをしていたら、効果的な政策であっても、印象が悪くなり、民衆の支持が得られずに実行できなくなってしまいます。言ってもないことを弁解したりして無駄な時間をとられて、論理的な議論ができなくなってしまいます。

ちなみに私も冗談で藁人形論証を使ったことがあります。
以前、友達と高校時代の部活の話になりました。その友達は、身長180cm超えの筋肉ムキムキのラガーマンで、日頃は静かで感情を表に中々出さないヤツなんですが、「3年の引退の時泣いたか?」と聞いたんですよ。
そしたら、そいつは、「そりゃ泣いたよ。周りも皆泣いていたし」と答えたんですね。
そこで私は、「自己保身に走って本当にズルいなやつだな。周りが泣いてるからって空気読んで、泣いて。自分も頑張ってきました、思い出もいっぱいありますってアピールして」といじったんです。

これは、藁人形論証です。
高校時代の部活と言えば青春の代名詞みたいなもので、「皆が真剣に打ち込む」、「引退の時に流す涙は、それぞれの思い出が詰まったもの」といった常識が隠れた前提としてあります。確かに、私とその友達でもこの隠れた前提は共有された認識で、言わなくても分かるモノでした。しかし、私は敢えてそれを無視して、相手の発言内容だけを抜き出して、「周りが泣いていたから、自分も泣いた」と歪めて解釈しています。

つまり、「泣いた」理由の最大の原因は、「周りが泣いていた」こととしています。さらに、「周りが泣いていたから、自分も泣いた」というコトから、言ってもいない「自分も頑張って来た、思い出もいっぱいあるというアピール」を付け加えて、「自己保身的でズルい」と批判しています。

もちろん友達は、「そんなことは言ってない、ふざけるな。歪めて尾ひれをつけるな」と言い返してきましたが。

このように、藁人形論証は、相手の主張を正しく引用しなかったり、歪めた内容で反論することです。

これでは、相手の主張を歪めているので、相手の主張自体は論破したことになりません。しかし、聴衆がいるとこれが効果的になります。相手の主張が論破されたように見えるので、相手のより自分の主張が説得的に見えるという効果が生まれます。

議論の目的が、論理的に、建設的に、何かしらの結論を求めることだとしたら、藁人形論証は避けるべきなのは言うまでもありません。

28.人身攻撃論法

人身攻撃論法は、相手の主張に対して反論するのではなく、相手の人格や地位、主張を支持する人たちの欠点等について論じるコトです。

人身攻撃論法は大きく4つに分けられます。
まず、相手の人格を批判するもので、対人論証と言います。
これと似ていますが、相手の立場を批判するものは、状況対人論証と言います。
そして、相手に限らず主張を支持する集団や個人を批判するものは、連座の誤謬と言います。
最後に、相手がの行動が主張と矛盾していることを批判するものは、お前だって論法と言います。

細かいところまで注意を払って4つの違いの区別はしなてくもいいですが、相手または主張に何かしらの価値観や思想があるとレッテルを貼ることで、間違いであると反論するものです。相手の主張自体に反論していないので、相手の主張が正しくないことは何も証明していません。しかし、論点のすり替え同様に、論点を拡散させたり、聴衆に相手に悪い印象を植え付けることはできます。

まず、対人論証から見ます。相手の人格を批判するものですが、(11.28.1)を見てください。

(11.28.1)対人論証
<前提> 彼は犯罪者である

[結論] よって、彼の主張は聞く価値もない

(11.28.1)では、「彼は犯罪者である」ことを前提として、「彼の主張は聞く価値もない」間違ったものと結論づけています。これでは、「彼の主張」自体がどうして間違っているのか論じていないため、「彼の主張」が正しくないことは何一つ証明できていません。

論理構造を明確にすると、これが論理的ではないことが一目瞭然になります。(11.28.1)には、隠れた前提として「犯罪者の主張は常に誤りである」というモノがあります。これが真でないと、正しい論証にはなりません。

(11.28.1)対人論証
<前提> 彼は犯罪者である
<隠れた前提> 犯罪者の主張は常に誤りである
[結論] よって、彼の主張は聞く価値もない

「彼が犯罪者」であったとしても、主張の内容が正しいかどうかは本来無関係です。正しいことを言っていることだって普通にあります。したがって、隠れた前提「犯罪者の主張は常に誤りである」は偽であると言えます。よって、正しくはない前提から結論を導いているので、反論としては論理的ではありません。

しかし、対人論証を行うことで、聴衆がいれば、「犯罪者」という印象から相手の主張は受け入れ辛いものに感じられやすいです。相手の主張に対して反論することなく、相手の主張が間違いであるかのように論じることができています。

「犯罪者」の他にも、「○○の過激派だ」といったレッテルの貼り方もあります。また、「こんな考えを言うなんて、少し頭が足りていないのではないか」といった言葉もレッテルを貼っていると言えます。とにかく相手の人格を攻撃することで反論をしています。

続いて、状況対人論証を見てみましょう。これは、相手の立場を批判するものでした。立場を批判するとは、具体的には、立場上そのように主張するのは当然であるから、相手の主張は正しくない、といったものです。(11.28.2)を見てください。

(11.28.2)状況対人論証
<前提1> 彼は、不祥事を起こした A 社を擁護している
<前提2> 彼は、A 社に勤めている


[結論] よって、彼の主張は、聞くに値しない

これも擁護の内容自体を批判して反論すればいいのに、していないので論理的とは言えません。

これには、2つの隠れた前提があります。「自社の不祥事は必ず擁護する」と「その擁護は誤りである」です。

(11.28.2)状況対人論証
<前提1> 彼は、不祥事を起こした A 社を擁護している
<前提2> 彼は、A 社に勤めている
<隠れた前提1> 自社の不祥事は必ず擁護する
<隠れた前提2> その擁護は誤りである
[結論] よって、彼の主張は、聞くに値しない

2つの隠れた前提が正しいとは言えません。自社批判する人もいるにはいます。また、擁護する主張も正しい可能性だってあります。ですから、この状況対人論証は、論理的に正しい主張とは言えません。

しかし、状況対人論証も対人論証と同様に、聴衆がいれば効果的になります。大人の世界では、現実に自社批判はおいそれとできず、自己保身もあって擁護しがちです。そして、自社批判だけではなく、自分の会社の商品なら、大して良い物でなくても勧めることは、しょっちゅうあります。

別に大人の世界でなくても、友達をそう簡単に悪く言うコトができないのは、日常でもよくあると思います。統計をとったわけではないので、私個人の狭い経験ということで言わせてもらうと、女子にこの傾向が強く見られます。

例えば、友達が何か悪いことをして皆から批判されているとき、あなたも一緒に批判しますか? 批判をしつつも、最大限擁護しようとするのではないでしょうか。「〜は確かに悪いことをしたが、それは仕方ない面もあるではないか」といった感じで。

また、性格も良いとは言えないが一応は友達である人がいるとします。そんな友達を紹介するとき、ありのままの姿で紹介するのではなく、ちょっと色を付けて良いように言うことが多いと思います。無神経な発言をして人を苛立たせるコトが多いのに、「こいつは正直者で嘘を付けない」等といったように。

このように日頃から、「立場があればそう主張せざるを得ない」といった経験を私達はしています。状況対人論証は、この経験を利用しています。「あいつは〜だから、そう言うに決まっている。信用できない」と論じると、ついそうだなと思ってしまいます。論理的に考える癖をつけて流されないようにしましょう。

続いて、連座の誤謬を見てみましょう。これは、相手の主張を支持する集団や人を批判するものでした。(11.28.3)を見てください。

(11.28.3)連座の誤謬
<前提1> 彼は、軍事強化を主張している
<前提2> 軍国主義者も軍事強化を主張している


[結論] よって、彼は軍国主義者であり、危険だ

これも「軍事強化」自体を批判して反論すればいいのに、それをしていないので論理的とは言えません。

これが論理的な主張であると言うためには、2つの隠れた前提があります。「軍事強化を主張する人は軍国主義者」と「軍国主義者は危険だ」です。

(11.28.3)連座の誤謬
<前提1> 彼は、軍事強化を主張している
<前提2> 軍国主義者も軍事強化を主張している
<隠れた前提1> 軍事強化を主張する人は軍国主義者だ
<隠れた前提2> 軍国主義者は危険だ
[結論] よって、彼は軍国主義者であり、危険だ

隠れた前提2の「軍国主義者は危険だ」という命題は、「危険」が具体的に何なのか分からないのですが、一応正しいとしておきましょう。軍国主義は自由が制限されやすいので、私自身も嫌ですし、先進国の中では共通の正しいとされる価値観であると一応言ってもよいと思います。

なお、「軍国主義」とは「軍事的な戦略や価値観が第一で、政治・経済・社会制度等をそれに合わせること」といった意味で押えていたらここでは十分かと思います。

しかし、隠れた前提1の「軍事強化を主張する人は軍国主義者だ」は、正しいとは言えません。つまり、軍事強化を主張しても、軍国主義者とは限りません。

そもそも、軍事力は相対的なモノ、つまり相手国との関係によるモノです。相手国が軍事力を強化すれば、こちらもそれに合わせて軍事力を強化しなければ、自国の防衛ができません。戦争はすべきではないですが、戦争が起きるのは歴史的に見ると、軍事力のバランスが崩れたときに起きやすいです。したがって、軍国主義者ではなくとも、しかも戦争を絶対に避けたいと考えているからこそ、他国が軍事力を強化して来たら、軍事力を均衡させないといけないと考え、軍事強化を主張することになります。

このように連座の誤謬は、主張内容から、それを支持する集団や個人を引き合いに出して批判するコトになります。これは誤った類比や藁人形論証にも似ています。いずれにしろレッテルを貼り付けることで相手の主張に直接反論することなく悪い印象を与えることができます。

最後に、お前だって論法を見てみましょう。これは、相手の行動が主張と矛盾していることを批判するものでした。
名前の通り、「お前だって〜なんだから、そんなことは言えない」といった反論の仕方になります。論点のすり替えとセットで使われることが多いです。(11.28.4)を見てください。

(11.28.4)お前だって論法
彼は時間厳守と言っているが、彼自身が遅刻をよくしているではないか
したがって、時間は守らなくてもよい
<前提1> 彼は、時間厳守と言っている
<前提2> 彼は、遅刻をよくする


[結論] よって、時間は守らなくてもよい

これも「時間厳守」自体を批判して反論すればいいのに、それをしていないので論理的とは言えません。

これが論理的な主張であると言うためには、隠れた前提として「遅刻をよくする人がいるので、時間厳守はしなくてよい」です。

(11.28.4)お前だって論法
彼は時間厳守と言っているが、彼自身が遅刻をよくしているではないか
したがって、時間は守らなくてもよい
<前提1> 彼は、時間厳守と言っている
<前提2> 彼は、遅刻をよくする
<隠れた前提> 遅刻をよくする人がいるので時間厳守はしなくてよい
[結論] よって、時間は守らなくてもよい

隠れた前提「遅刻をよくする人がいるので時間厳守はしなくてよい」というのが真ならば、(11.28.4)は正しい推論と言えます。

しかし、この主張だけでは、隠れた前提「遅刻をよくする人がいるので時間厳守はしなくてよい」が正しいとは言えません。「時間厳守を破る者がいる」からといって、「時間厳守をしなくてもよい」と結論付けることは論理的に飛んでいますし、主張として弱いです。もしこれで論証できたと言っていいのならば、「この世に法を破る者がいる」から、「法律は守らなくてもよい」ということになります。

でも、時間厳守を主張する人自体が遅刻をよくしていては、ばつが悪いです。特に聴衆がいると、たとえ主張が正しいとしても、「お前がそれを言うなよ」と反発したくなり、心理的に受け入れ難くなったりします。

このようにお前だって論法は、相手の主張自体に反論することなしに、主張内容と矛盾する行動を批判することで説得力がないように見せかけるモノです。そして、矛盾した行動を相手がとっているということは、その主張は誤りだとも持って行くことができます。

さらには、論点もズラすことができます。もし相手の主張が正しいなら、相手の行動は非難されるべきものとなるため、相手が悪いという話に移していくコトもできるからです。

実際には、相手の主張自体には反論していないので、論理的に意味が無いことに気を付けてください。

29.多重質問の誤謬

議論しているとき、相手に質問する機会が多くあります。「あなたの主張はこういうことですよね?」とか「具体的にはどのような影響があるのか?」といった具合に、論点を明確にし、整理していくコトが必要だからです。

このとき、質問を巧妙にすることで、証明責任を相手に転嫁したり、自分の主張に都合が良いコトを相手から引き出したり、相手の印象を悪くすることができます。(11.29)を見てください。

(11.29)多重質問の誤謬
太郎が花子を追いかけていたのか明らかではない場合に、太郎は次のような質問をされた
[質問] もう花子を追いかけるのはやめたのですか

質問には、「誰が」「何を」「いつ」「どこで」「なぜ」「どのように」といういわゆる 5W1H の質問と、「はい」か「いいえ」で答える yes/no の質問あります。

5W1H の質問なら、それに具体的に答えることになるので別にいいのですが、yes/no の質問になると端的に「はい」か「いいえ」と答えることになるので、相手の質問内容がそのまま使われることになります。

(11.29)の「もう花子を追いかけるのはやめたのですか」という質問で言えば、
「はい」と答えると、「もう花子を追いかけるのはやめた」ということを意味し、
「いいえ」と答えると、「まだ花子を追いかけるのはやめていない」ということを意味する、
ことになります。

しかし、(11.29)では「太郎が花子を追いかけている」のかどうか明らかではないので、そもそも「太郎は花子を追いかけていたことがない」というのが事実の可能性もあります。
もしそうなら、質問に答えた時点で、
「かつて、太郎は花子を追いかけていたことがある」ことを事実として認めた上で、
「まだ太郎は花子を追いかけている」か、「もう太郎は花子を追いかけるのをやめた」か、
のどちらかになり、太郎にとって、「はい」と「いいえ」どちらで答えても事実と異なることになります。

このようなことが起きる理由に、質問が複数のコトを前提にするような内容になっているためです。どういうことか詳しく見て行きます。

まず、「もう花子を追いかけるのはやめたのですか」という質問は、「かつて、太郎が花子を追いかけていた」ことを前提とした質問です。その上で、「今、太郎は花子を追いかけていないか」を質問しています。

(11.29)多重質問の誤謬
太郎が花子を追いかけていたのか明らかではない場合に、太郎は次のような質問をされた
[質問] もう花子を追いかけるのはやめたのですか

<前提> かつて、太郎が花子を追いかけていた
[質問] 今、太郎は花子を追いかけていないか

副詞の「もう」という言葉が、「ある状態に既になっている様子」を表します。ですから、「もう A をやめたのか?」と聞くと、「かつて A をしていたが、既に A をやめた状態にあるのか?」というコトを意味するので、「かつて A であった」ことが自動的に含まれた表現となります。

この質問は、「かつて、太郎が花子を追いかけていた」ことが事実なら、1つの事実を前提として、それから1つの内容を尋ねる質問になります。通常の質問と言えます。ですから、質問に「はい」と答えても「いいえ」と答えても、質問の「今、太郎は花子を追いかけていないか」という内容にしか答えないことになります。

要するに、1つの質問に対して、1つの内容を答えたことになります。

(11.29)多重質問の誤謬
太郎が花子を追いかけていたのか明らかではない場合に、太郎は次のような質問をされた
[質問] もう花子を追いかけるのはやめたのですか

<前提> かつて、太郎が花子を追いかけていた
[質問] 今、太郎は花子を追いかけていないか

前提が真である場合
 →質問内容のみに答えている
 (1つの質問に1つの内容を答える)

しかし、「かつて、太郎が花子を追いかけていた」ことが事実でなかったり、正しいか分からない場合に、この質問をすると、多重質問となります。この質問は、正しいとは限らない前提の下に生じた質問ですが、前提の「かつて、太郎が花子を追いかけていた」ことが正しく事実でない限り、通常はなされないはずの質問です。

それなのに、この質問に答えると、質問内容が適切であることを認めたことになり、質問内容の「今、太郎は花子を追いかけていないか」だけでなく、前提の「かつて、太郎が花子を追いかけていた」ことが事実だと認めたことになります。

したがって、1つの質問に対して、2つの内容に答えたことになります。

(11.29)多重質問の誤謬
太郎が花子を追いかけていたのか明らかではない場合に、太郎は次のような質問をされた
[質問] もう花子を追いかけるのはやめたのですか

<前提> かつて、太郎が花子を追いかけていた
[質問] 今、太郎は花子を追いかけていないか

前提が真である場合
 →質問内容のみに答えている
 (1つの質問に1つの内容を答える)
前提が偽または不明である場合
 →質問内容と前提の両方に答えている
 (1つの質問に2つの内容に答える)

このような質問を多重質問の誤謬と言います。つまり、相手が異議を唱えずに質問に答えると、暗黙の事実が認められるような質問です。
質問に答えると、質問の前提が、事実と直接証明されることなしに、自動的に事実として認められることになります。

これは、カマをかけるときに使われることが多いです。
証拠はないが、どうやら「太郎が花子を追いかけまわしていた」らしいと疑われるときに、正面から質問しても否定されるだろうと考えられます。このとき、「もう花子を追いかけるのはやめたのですか」と多重質問を行います。そうすると、太郎は心当たりがあれば、「なぜこいつはそのことを知っているんだ?」と思い、ついポロっと答えてしまうかもしれません。そうすれば、「太郎は花子を追いかけていた」ことが事実として認められることになります。

さらに聴衆がいれば、そうした質問がなされるということは、明らかにされていないが、「太郎が花子を追いかけていた」ことが事実としてあると思わせることができます。「太郎が花子を追いかけていた」という事実がそもそもなければ、「太郎は花子を追いかけたことがありますか?」や「太郎は花子は追いかけていますか?」といった質問になるのが普通であるからです。多重質問がされれば、もし太郎に心当たりがまったくなくても、聴衆は「太郎は花子を追いかけていた」ことが事実に思われてしまいます。

そこで、こうした多重質問がなされた場合の対策として、yes/no で答えるのではなく、「花子を追いかけたことなどない」ことをハッキリと明言するなど、質問の前提がないことを明らかにし、「その質問がそもそもおかしい」ことを答えることが必要になってきます。

他にも、「このような困難で深刻な問題があるのに、放置されています。対策しなくていいんですか!?」といったモノも多重質問と言えます。
本当に「困難で深刻な問題」なら、「放置しておけるはずがない」です。「対策もしなくてはいけない」に決まっています。ですから、この質問に「いいえ、対策はすべきです」と答えたら、「困難で深刻な問題を放置している」ことを認めることになってしまいます。もし聴衆がいれば、論理的な質問ではないにもかかわらず、責任者に対して悪い印象を持つ可能性があります。こういう場合は、「対策はすべきですし、実際既に対策はしている。決して放置していたわけではない」と質問の前提がおかしいことを指摘して回避する必要があります。

多重質問の誤謬に引っかかると、言質を取られて自分の首を絞めるコトになる危険があるので気を付けておきましょう。

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7 まとめ

ここまで様々な誤謬を見てきました。話を聞いていると、何でもかんでもすべて誤謬のような気がしてきますが、勘違いしてはいけません。今まで使ってきた例は、議論の一部を取り出して、誤謬となっている箇所を見ただけです。現実には、たったの3行程度で済むような議論は、少ないです。自分と相手の意見がぶつかり合うので、議論は、長く複雑になります。それなのに、論証の一部を抜き出せば、論理的に不十分になるのは当然です。

例えば、権威に訴える論証でも、ちゃんと結論根拠がある主張で、1つの証拠として、権威ある人の言葉を引用していれば、別に誤謬でも何でもありません。権威に訴える論証が誤謬となるのは、結論根拠に権威ある人の言葉しかなかったりする場合です。

一部だけ取り出してみると、論理的に誤謬を犯しているように見えても、前後の文脈を見れば、誤謬とはなっていないモノの方が多いかと思います。ですから、一部に注目して、誤謬だと指摘するのではなく、相手の主張の長い複雑な論理展開を正確に理解しておかなければなりません。一部に不必要に注目すること自体が誤謬です。

ただし、油断していると、つい犯してしまう誤謬を見て来ただけです。特に論理的思考に慣れていないとき、こうした誤謬に陥りやすいです。推論の形式を上手く使いこなすことに一生懸命で、内容面まで気が回らなかったり、内容面の正しさに意識が集中していて、形式面が疎かになったりするものです。そして、先入観や感情を論理的な正しさと勘違いしてしまったりもします。だからこそ、典型的な誤謬を学び、こういう間違いを犯しやすいのだと意識することが大切なのです。

また、帰納法の必ずしも正しいとは限らないという問題点からも分かる通り、完全で完璧な論理的な主張というのは、ほとんどありません。やたらと瑣末な誤謬に神経を尖らせるのではなく、見過ごしてもいい誤謬もあるのだと思えば、少しは気が楽になるかもしれません。

ともかく、論理的思考を実践しつつ、何だか誤謬を犯しているかもと思ったら、ここで学んだコトに照らして考えてみてください。


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 参考文献
◎野矢茂樹 『論理学』 東京大学出版会
○野矢茂樹 『新版 論理トレーニング』 産業図書
○照屋 華子、岡田 恵子 『ロジカル・シンキング』 東洋経済新報社
・照屋 華子 『ロジカル・ライティング』 東洋経済新報社
・アンドリュー・J・サター著/中村起子訳 『図解主義!』 インデックス・コミュニケーション
講義で適宜使った専門知識に関する文献
・吉川洋 『マクロ経済学(現代経済学入門)』 岩波書店
・伊藤元重氏 『マクロ経済学』 日本評論社
・マンキュー 『マンキュー入門経済学』『マンキュー経済学Iミクロ編』『マンキュー経済学IIマクロ編』東洋経済新報社
・スティグリッツ 『スティグリッツ入門経済学』『スティグリッツミクロ経済学』『スティグリッツマクロ経済学』東洋経済新報社
・キング(Gary King)、コヘイン(Robert O. Keohane)、ヴァーバ(Sidney Verba) 『社会科学のリサーチ・デザイン』 勁草書房
・江藤裕之 「healthの語源とその同族語との意味的連鎖−意味的連鎖という視点からの語源研究の有効性−」『長野県看護大学紀要』2002, no4, p.95-99
・Richard P. Feynman, The Feynman Lectures on Physics, Addison–Wesley
日本語:ファインマン『ファインマン物理学〈1〉力学』『ファインマン物理学〈2〉光・熱・波動』『ファインマン物理学〈3〉電磁気学』『ファインマン物理学〈4〉電磁波と物性』『ファインマン物理学〈5〉量子力学』 岩波書店
◎Charles Eames Jr 映画の書籍化powers of ten
・文部科学省「平成17年度学校基本調査 学部系統分類表」 web
・厚生労働省 健康日本21(総論) 第6章 人生の各段階の課題 web
・東京大学 web
・ポパー 『果てしなき探求〈上〉―知的自伝』『果てしなき探求〈下〉―知的自伝』 岩波現代選書
・廣松渉 編 『岩波哲学・思想事典』 岩波書店
・思想の科学研究会 編 『哲学・論理用語辞典』 弘文堂


総論 教養と学問の前に

はじめに(テキストダウンロード)
序章 学問と議論のために

 第 I 部 論理的思考
第1章 論理的であるとは
第2章 推論方法の基礎
第3章 三段論法
第4章 演繹法
第5章 帰納法
第6章 仮説推論
第7章 類比推論
第8章 観念連合
第9章 弁証法
第10章 論理的思考のまとめ
第11章 論理と誤謬
第11章(補講) 論理と誤謬

 第 II 部 論理的な問題解決 
第12章 目的と手段
第13章 演繹法と帰納法の絡み
第14章 問題と解決
第15章 論理ツリー ― what ツリー―
第16章 論理ツリー ― why ツリー―
第17章 論理ツリー ― how ツリー―
第18章 設定型の問題と創造型の問題
第19章 因果関係図
第20章 論理ピラミッドの基本
第21章 論理ピラミッド ―現象型の問題―
第22章 論理ピラミッドの応用
第23章 論理的な問題解決のまとめ

 第 III 部 教養と学問・科学
第24章 学問と科学の定義と目的
第25章 科学の方法
第26章 定性的研究と定量的研究
第27章 実証主義と反証主義
第28章 還元主義・総合・全体論
第29章 学問と専門・教養
第30章 学問の専門分化
第31章 教養と学問

引用・参考文献
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