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第11章 論理と誤謬
論理的思考が体系化されれば、後は実践あるのみです。論理的思考を用いて、様々な問題に対処したり、議論を交わして行けばよりのですが、方法論に則りながら臨機応変に実践して行く際に、その気が無くとも、つい誤った推論や結論を導いてしまうこともあります。
そこで、論理的思考を実践するときに、陥りやすい誤謬、つまり、誤りを簡単にまとめておくことにします。
目次 |
1 議論と誤謬・詭弁・強弁 続きは次頁へ おわりに テキストのダウンロード[詳細] 通常版 既述版 |
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1 議論と誤謬・詭弁・強弁
さて、論理的思考がどのようなものなのか、どのようにすれば論理的と言えるのかについて見てきました。講義の最後に、論理的思考で陥りがちな誤謬について簡単にまとめて触れておきたいと思います。
誤謬とは、簡単に言うと、誤りを犯すことです。正しい方法を知っていても、人間である限り、誤りを不意に犯してしまうものです。しかも厄介なことに、正しい方法に則っていると思っているときには、その誤りに気付かず見過ごしてしまうことが多いです。
そこで、論理的思考における典型的な誤謬を知ることで、論理的思考をより正確に行えるようにしたいと思います。典型的な誤謬を知っていれば、論理的思考で物事を考えている際に、「これは典型的な誤謬を犯していないか」と意識して点検できるので、主張がより論理的になり、欠点が少なくなります。
また、典型的な誤謬を押えておくことで、人と議論したり、文章を読んだりする際にも、相手の主張の論理的な弱点を見つけ出せるので、より正しい結論へと発展させて行けます。
さらには、相手が、自分の意見に論理的に弱点を避けられないときに、推論の形式に則りつつ論理性があるように見せかけながら、意図的に誤謬を犯していることにも気付けます。要は、説得的に「見える」主張に騙され難くなるということです。
反対に、あなたが自分の論理的主張に欠点があると自覚しているなら、意識的に誤謬を犯して、表現を変えるなどして隠してしまうこともできます。誤謬と分かっているので、表現を都合の良いように予め変えてしまうこともできるのです。そうすれば、相手が気付かない限り、論理的な主張としての説得力を持つことになります。本来、これはすべきではないのですが、どうしても自分の意見を押し通したいときに使えます。無論、もし相手が論理的思考を得意としていたら、あなたの誤謬に気付いて論破して来るでしょうが。
ともかく、論理的思考における誤りを整理したいと思います。なお、論理的に誤っているとは、根拠たる前提が結論を正しく支えていないことですが、推論の形式の誤りや、内容の関連性に誤りがあることになります。先程話したように、誤りを犯すといっても、わざとやるような意図的なものと、不注意によるうっかりといいた無意識によるものの2種類あることが分かります。
誤謬と言う場合、通常、後者の無意識による論理的に誤りを犯すことを意味します。意図的な誤りを犯すのではなく、気付かぬ内に誤っていたということです。
では、意図的に論理的に誤りを犯すことを何かと言うと、詭弁です。これは自分の主張の論理の誤りに気付いていながら、わざと論理的に誤っていることを犯します。
何故にそんな誤りをわざわざ意図的に犯すのかという理由は、色々考えられますが、自分の結論に何とかして行きつきたいと考えているからと言えます。人と議論しているとき、自分の主張を採用させたい。しかし、今ある前提からは自分の結論は論理的に導くのが非常に難しい。こういった場合、自分の中にある結論に向けて、今ある前提を無理矢理つなげてしまうわけです。こんな強引なことをすれば、論理的ではなくなってしまい、余計に説得力が無くなるのが普通です。
そこで、説得的にするために論理的な推論の形式に則るように見せかけたり、関連性があるように見せかけたりするわけです。たとえ論理的に見えても、その実、論理的には誤りです。しかも、わざと誤りを犯しているわけです。このようにして、詭弁は用いられるに至ります。
誤謬は無意識に犯してしまうモノですが、気付いたら修正すればいいだけです。しかし、相手が詭弁を使っているコトに気付けないと、痛い目に会うことが多いです。詭弁によって、相手の主張を受け入れてしまったばかりに、それが言質となって、後々に良い様に使われたりします。相手は意図的に詭弁を使うわけですから、相手が得になり、自分が不利になるような結論へと導いている可能性は通常よりも高いわけです。ただ、詭弁を使う人は意図的なので、論理的な誤りを指摘すれば、しぶしぶながらも受け入れてくれることも少なくありません。
そして、誤謬と詭弁の他に強弁というものがあります。これは詭弁よりも巧妙ではなく、自分の主張をひたすら言い張るだけです。または、議論の主題とは関係ないことを重視してひたすら主張する場合もあります。
根拠も前提も関係ありませんので、結論のみをひたすら言い張るだけの場合が多いです。このように強弁が始まると、そこには論理がないので、後は感情や面子の問題になってしまいがちで、基本的に議論は止まってしまことが多いです。強弁は、相手が対等な立場なら無視すれば済ませられますが、相手が上司や決定権に大きく関わっていたりすると、おそらく絶望することになります。そこはもう議論ではなく、権力や暴力による支配と服従しかありません。上に立つ人は論理的な人であって欲しいとつくづく思い知らされることになるでしょう。強弁に比べたら、詭弁は論理の皮を被ろうとしているだけに、まだましに思えてきます。
このように誤謬と詭弁と強弁をわざわざ区別した理由は、議論のときに相手との人間関係を考えたからです。
私達の世の中は、論理だけでは動いていません。そこには社会的地位や人間関係があります。感情も大きく関わって来ます。いくら議論には人格は関係ないとしても、言葉遣いや態度が悪ければ、正しく論理的な主張をしても反感を買います。いたずらに感情を苛立たせては、論理の勝負以前に、話を聴いてもらえなかったり、論理的な主張でも受け入れられ難くなります。ですから、感情を完全に断ち切れないにしても、適切な言葉遣いや態度によって相手に敬意を示し、論理性が重視できる環境を作らなければなりません。
もし、これができないなら、人間としてではなく論理の動物として議論を行うことになります。つまり、人間として見なされないことになります。そしてヒトは、動物の言うことは聞きません。愛情を注いでいるペットなら希望を叶えてくれるヒトもいるかもしれませんが。議論しているつもりでも、その実態は皆から聞き流されて無視されているだけになります。
このように人間関係にも最低限は配慮しないといけないので、論理的に誤りを指摘するときに、誤謬と詭弁と強弁を分けました。
相手が無意識に誤りを犯しているならば、誤謬を犯しているというその事実だけを指摘するだけです。たまに、「こんな論理的な誤りを犯してお前は馬鹿か?」といった態度や言葉を付け加える人がいますが、やめましょう。その言葉自体が、議論には関係ない人格攻撃なので論理的ではありません。相手の感情に配慮して、ただただ誤謬を丁寧に指摘するだけでいいです。
また、意図的に論理的な誤りをい犯していない人に向かって、いきなり「詭弁をすべきではない」と指摘をすれば、相手の感情を大きく害する危険があります。詭弁という言葉からは、誤りを犯した人が意図的に行っており、悪意があると感じ取られからです。
ただし、意図的に論理的な誤り、つまり、詭弁をしている人というのはいます。そういう人は、詭弁を何度もさりげなく使ってきます。何度も誤謬を犯しており、しかも、その誤謬が毎回のように議論をある1つの方向に誘導しているような場合には、詭弁の可能性が高くなってきます。このときは、「詭弁はやめるべきだ」とか釘を刺してもいいでしょう。
誤謬でもなく詭弁でもなく、強弁をしている人がいれば、論理的な議論に戻すように努力するしかないです。それが無理なら、その人をさりげなく議論の外に置いておくか、その議論自体を諦めましょう。
それでは、議論するときに、守るべきルールを紹介します。今まで学んできた論理的思考では、相手がおらず、自分の主張をどう組み立てるかが中心でした。これは、議論に臨む前の準備段階です。
まず、形式が論理的になっていることが挙げられます。これは、今まで説明して来たもので、根拠と結論を備えており、正しい推論の方法が重要となります。
次に、内容が論理的になっていることです。これも今まで説明して来たもので、命題内や命題間の概念に適切な関連性があることが重要になります。また、隠れた前提の存在にも注意が必要です。
論理的であるか 1. 形式面 ・根拠と結論 ・推論方法 2.内容面 ・命題の関連性 ・隠れた前提 |
そして、新しく加えられるルールがあります。こちらは相手がおり、実際に議論を行うためのモノとなります。
何かを主張する人が、その主張の証明責任を負うことです。つまり、主張する人が、自分の主張を構成する前提が正しいこと等を証明しなければならないということです。相手方に証明責任は基本的にありません。主張する人が命題が正しいことを証明できなければ、それは論理的ではないと見なされても文句が言えないことになります。したがって、自分の主張が無視されても仕方ないことになります。
論理的であるか 1. 形式面 ・根拠と結論 ・推論方法 2. 内容面 ・命題の関連性 ・隠れた前提 議論の作法 3. 証明責任 ・主張する者が負う |
また、議論の主題と関係あることのみを述べることも挙げられます。議論をするときには、何か中心となる問題や話題があります。その中心となる問題が主題であり、それに関連して議論が展開することとなるので、いくらすばらしい主張でも、主題と無関係の内容ならば、意味がまったくありません。議論が変な方向に行かないようにするためにも、主題から離れないようにしなければなりません。
論理的であるか 1. 形式面 ・根拠と結論 ・推論方法 2. 内容面 ・命題の関連性 ・隠れた前提 議論の作法 3. 証明責任 ・主張する者が負う 4. 主題の維持 ・主題との関係から関連性を考える |
この主題との維持は、命題内と命題間の関連性にも関係することです。論理的思考では、関連性の重要性を口煩く言ってきました。この関連性があるかの判断をする上で、重要な要素の1つが、主題と言えます。つまり、命題内と命題間の関連性を見出すときに、主題と関係しているかどうかが重要になります。関連性は見出そうと思えばいたるところに見出せるものです。主題と関係ないことに関連性を見出すことは避けなければなりません。
そして、相手の主張に反論するときは、相手の主張の結論ではなく根拠に対して反論することが重要です。主張は基本的に根拠と結論の形式になっています。結論に反論しても相手の主張を崩すことはできないので、無駄です。反論するときは、根拠が誤りであるか、または、推論方法が誤りであるかを指摘するように反論する必要があります。
論理的であるか 1. 形式面 ・根拠と結論 ・推論方法 2. 内容面 ・命題の関連性 ・隠れた前提 議論の作法 3. 証明責任 ・主張する者が負う 4. 主題の維持 ・主題との関係から関連性を考える 5. 反論の方法 ・根拠に対して反論する ・推論方法に対して反論する |
もう少し詳しく説明すると、なぜ反論は根拠に対して行うかと言うと、結論自体は否定ができないからです。
命題の真・偽の判定を思い出してもらいたいのですが、結論命題の真・偽は、正しい前提命題から正しく推論することで決まりました。演繹法ならば、正しい前提命題から正しく推論していれば、結論命題は必ず正しくなります。帰納法では、正しい前提命題から正しく推論していれば、結論命題も正しい確率が高くなります。このように、結論命題の正しさは、正しい前提命題と正しい推論方法に依存することになります。だから、結論命題だけでは、結論命題が正しいか正しくないかは判断できないことになります。
結論の正しさの判断 結論…正しい ↑推論…正しい 前提…正しい 結論…正しいとは限らない ↑推論…正しくない 前提…正しい 結論…正しいとは限らない ↑推論…正しい 前提…正しくない 結論…正しいとは限らない ↑推論…正しくない 前提…正しくない |
したがって、結論命題が正しいとは言えないとするためには、前提命題または推論方法のいずれかが誤りであることを指摘しなければなりません。このことから、相手の主張が正しくないと反論するためには、結論ではなく、結論の正しさを支えている根拠か推論方法を崩す必要があるコトが分かります。
結論の正しさの判断 結論 ←反論しても無駄 ↑推論←反論する対象 前提←反論する対象 |
最後に論理的な主張同士をぶつけ合って、議論の過程で一部修正されながらも、どちらの主張を採用するのか結論を出すことになります。論理的であるのは当然として、どの結論がベター、つまり、より良いモノなのかを判断しなければなりません。このとき、目的、必要性、実効性、実現可能性が重要になります。
目的と必要性は、主題そのものであることが多いです。したがって、目的と必要性を適切に設定しなければ、そもそも主張は構成できないことになります。そして、実効性と実現可能性は、目的と必要性に合わせて、主張がどれだけ効果的で現実的なのか、という主張の説得力に関わってきます。目的と手段という関係で見れば、目的と必要性が、いわゆる「目的」であり、実効性と実現可能性が「手段」と言えます。
目的は、何故そのような結論にするのか、というコトです。目的がない主張は、論じられる価値があまりないです。主張はこの目的を中心に構成されることになります。そして、目的は、議論を開始する際に、主題として設定されているのが普通ですが、自分で目的を設定しなければならない場合は、最初に目的意識を相手と共有できるように、丁寧に説明しておきましょう。現在の状況等の分析等を行うことで問題意識が明確になります。
必要性は、結論が必要であるのか、というコトです。これは目的と大きく関係することですが、目的があっても必要性がないモノは、論じられる価値があまりありません。必要性も、議論を開始するときに、目的と共に主題として設定されるが普通です。もし自分で目的を設定しなければならない場合には、必要性も同時に設定しなければならなくなります。これも議論の主題となるので、相手と必要性について共有できるように、丁寧に説明しましょう。
実効性は、結論が実行されたときに、目的を達成できるか、というコトです。目的が達成できるか否か、目的がどれだけ達成されるか、といったコトが、論理的な主張を採用するかどうかの基準になります。主張が論理的でも、目的に合った実効性がないと、意味のないモノになってしまいます。結論が実行されることでどのような効果が期待できるのか等を論じることになります。
実現可能性は、結論をどのように実行するのか、というコトです。実効性が高い、つまり、目的に合ったもので効果的な結論であるとしても、現実にそれを行うことができなければ、絵に描いた餅です。主張は実現可能なモノでないといけません。誰が、何を、どのようにやるのか、どれだけの時間と費用がかかるのか、といったコトを具体的に論じることになります。
こうした目的、必要性、実効性、実現可能性が根拠たる前提に置かれることになります。こうした根拠たる前提の下に、どの結論が、より現実的で効果的なのかが判断されます。問題が複雑で把握しきれない世の中において、理想的であり、最善最良の達成可能な結論がいつも見つかるとは限りません。ですから、自分達が今分かる現段階において、達成可能な、より良い結論を採用するしかありません。
目的 → 主題の設定 目的:何故そのような結論になるのか 必要性:結論が必要であるか 手段 → 効果と達成可能性 実効性:結論が実行されたとき、目的を達成できるか 実現可能性:結論をどのように実行するのか |
さて、何故このようなルールがあるかというと、このルールを守らずに議論すると、建設的な議論ができないからです。つまり、議論しても何ら有効な結論に到達することがなくなってしまうからです。更には、お互いに不快な思いをして終わりということにもなりかねません。そこで、昔から議論の方法について似たような問題に悩む人達が、最低限の守るルールを見つけ出して提示してくれました。このルールは、完全ではないにしろ、かなりの有効性のあるモノです。わざわざこのようなルールを体系化してくれていて有り難いです。
議論を建設的にするためにも、このルールは守らなければなりません。そして、ルールを破ると誤謬になり、意図的なら詭弁となり、酷いと強弁になります。
また、ルールが破られた状態を修正できないようなら、誤った結論やトンデモな方向へ進んでいく可能性が高くなります。さらに強弁が出て来ると、もう議論でも何でもなくなってしまいます。それは議論とは呼べないただの言い合い、罵り合いです。生産性皆無です。ですから、もしこのルールを知らなったりした人は今すぐにルールを守るように注意してください。
なお、このルールに疑問があり嫌で守りたくないと思う人は、一度このルールに則って、このルールの問題点と解決策を論理的に証明してください。主張する側に、証明責任があります。証明ができれば、議論を適切に有効に行おうと考えている人は、あなたに賛成してくれるはずです。
この他にも、小さい頃から教えて来られたはずの、場に相応しい言葉遣いや態度、人の話を遮らず最後まで聴く、内容を簡潔に話す、暴力などの脅しを使わない、といった当たり前のことが挙げられます。
この議論におけるルールを、意図的にしろ、無意識にしろ、破ると、詭弁や誤謬になるのですが、典型的なモノをテキストに載せているのでよく読んでおいてください。
補足
講義時間の関係で、誤謬と詭弁の解説はせず、テキストを各自で読むこととした。しかし、補講が続けてできたので、次頁で誤謬と詭弁についての解説をしている。
これより下は、補講を受講せずに帰宅した受講生に向けて、話した最後の挨拶代りのモノになるので、論理的思考について、何か新しく述べているわけではない。
それでは、全11章、5回にわたる講義を終わりたいと思います。これで論理的思考がどのようなもので、どのように行えばよいか理解できたかと思います。
いわゆる「お勉強」も、この論理的思考を使いこなせれば、そんなに難しいモノではありません。何から何まで、とにかく、暗記、暗記、暗記という勉強では、実際結構キツイです。それでも、受験は、特に私立専願の文系は、乗り切れてしまうので、辛いけど「覚えるだけ」という点では簡単な丸暗記に逃げる人が、確かにいます。
しかし、暗記だけでは、大学で真面目に学問を行おうとする段階で、本当に厳しくなります。まぁ、論理的思考も何も、そもそも勉強すらまともにせずに、過去問の答えを予めつくっておけば、丸暗記で単位がとれて、さっさと卒業させようとしている、少なくともそう考えられても仕方ないような制度を大学が採用している、というコトを考慮すれば、別に論理的思考なんて要らないのかもしれませんが。
それでは、論理的思考を碌に鍛えずに卒業して就職したらどうでしょうか。色々な問題を解決して、業績を上げて行かなければなりません。そこでは、チームワークもいるので人柄はもちろん必要になりますが、論理的思考が使えないといけません。難題を上手く解決して業績を上げるためには、色々なコトを考える思考力が必要だからです。社会人になって、論理的思考力を一から鍛えようとしても、仕事で時間がなく、中々難しいです。「あぁ、学生時代もっとまじめに勉強しておけばよかった」とよくある後悔をするでしょう。
もっとも、論理的思考を磨くのが嫌な人も安心してください。最近の産業事情等を見ると、特段考えることを必要とせず、単純労働に対する需要も高いです。そういう単純労働に就くなら、論理的思考力は意外と邪魔になるかもしれません。上からの命令が論理的でなかったりすると何だか気持ち悪く、心理的にストレスを感じるかもしれないからです。しかしながら、論理的思考がろくにできないのに、それが必要とされる職を選ぼうとしている大卒生が多いのが、日本の現状かもしれませんが。
いずれにしろ、論理的思考に慣れるまでは、1つの結論を導くだけでも、時間がかかったり、手順が多かったりして、煩雑に感じるかもしれません。これを面倒だと思い、論理的思考が別にできなくてもいいやと投げ出すのは得策ではありません。何事も正しい型に慣れて自分のモノにするのには時間がかかりますし、最初の内は違和感が付き纏うモノです。
キャッチボールをしたことない素人にボールを投げさせてみると、それはもう酷い投げ方をするものです。男女平等の現代で言うのもなんですが、俗にいう女の子投げというやつです。コントロールも悪く、球も遠くに飛ばない。そこで、投げ方を矯正します。なぜ矯正するのか?
ボールを遠くに投げられるようにするためであり、狙ったところに投げられるようにするためです。おそらく素人の人は、正しい投げ方の方が逆に投げ難く感じると思います。しかし、正しい投げ方に投げ難さを感じる理由は、素人が間違った型に慣れているだけで、素人の投げ方が正しいからではないです。それが証拠に正しい投げ方を身に付けられれば、自己流の投げ方よりもはるかに遠くに正確に球を投げられるようになります。最初の投げ難さに耐え、慣れて、正しい型を身に付けてしまえば、あの酷い投げ方には、もう戻りたくなくなるはずです。もし、最初の投げ難さに耐えられなくて、自己流の投げ方を続ければ、筋肉量が増える等して少しは遠くに投げられるようになるかもしれませんが、大した進歩にはなりません。正しい投げ方を身に付けるのが、一番手っ取り早いのです。
論理的思考を身に付けるのも、ことれと同じです。正しい型を覚え、慣れ、自在に操れるようになるまで、どこか違和感ややり難さがあるものです。それを言い訳にして、自己流に戻すのか、我慢して、慣れるまで続けるのかが、分かれ道となります。どうか、より物事を遠くまで正確に見通せるようになってください。
今私が話している意味が理解できなくても、論理的思考が必要だと思ったら、テキストをもう一度よく読み直してこの講義の内容を思い返してみてください。それでは以上です。ありがとうございました。
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